忠昌の元服

 大坂冬の陣の際、松平忠昌本多正信の相備として出陣し初陣を飾った。和議後、翌年の春には大坂への出陣があるとの噂が流れたが『今年は前髪などがある童形の者は身分を問わず出陣できないらしい』との噂も一緒に流れた。
 まだ前髪を切っていなかった忠昌は毛受某という小姓を呼んで前髪を切らせ成人の儀式を済ませた。しかし幕府に届け出もなく成人することは宜しくないことだったため、家中の者は
「咎めがあるのではないか」
 と不安に思いながら幕府の老中に報告した。しかし報告を聞いた徳川秀忠は本人に会うと機嫌良く接し
「よく似合っている」
 と褒め、忠昌に伊予守の官位と諱の一字を与えた。
 夏の陣では去年と同じく本多正信の相備として出陣したが、5月6日の夕方に正信を訪ねて
「明日の朝は兄の忠直と一緒に戦いたい」
 と願い出た。正信はしばらく考えたが、やがて
「忠昌殿の考えに任せます」
 と許可を出した。そこで忠昌は陣を移動させ天王寺・岡山での最終決戦で奮戦し首級57を得た。この時に忠昌自身も二つの首級を得て、さらにその一つは剣術の名人と呼ばれた念流左太夫のものだった。その闘いで十文字の片槍が折れたため、それが松平家の代々の持槍(大将の印として持つ槍)になったという。(『越叟物語』)

松平忠昌の墓
福井市田ノ谷町21ー4の大安寺に建つ忠昌の墓

管理人・・・現在、その槍は福井市立郷土歴史博物館が保管しています。

UPDATE 2013年3月17日
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