上方での槍合わせ

 大坂が落城した際、細川興元が敵と槍を合わせたと報告した。それを後で聞いた徳川家康
「敵と槍を合わせるということはそう度々あることではない。大坂にいた一向宗に攻められたため、茶臼山の北に見える勝曼院の山に佐久間信栄(不干斎)、筒井順慶、荒木村重が籠もった際、槍を合わせたと聞く。その他に上方での槍合わせは聞いたことがない。その時の勝曼院にあった槍は昔から言い伝えられた杉形(すぎなり)の槍と聞いている」
 と述べた。それを聞いた佐久間安政
「その通りです。同姓の不干斎がその日、2度槍を合わせました。1578年5月3日の合戦でのことです。朝は茶臼山の西、貝塚の合戦で6人が槍を合わせたと不干斎が話していました。その夜、勝曼院の山で不干斎の手のうち、志水又市、原弥助、浮見藤助、長瀬弥五左衛門、4人が槍を合わせました。長瀬は今は小右衛門と称し加賀にいます」
 と言った。すると家康は
前田利常は良い侍を抱えている」
 と誉めている。(『古実話』)

細川興元の墓
栃木県芳賀郡茂木町大字塩田227の能持院にある興元の墓

管理人・・・戦国時代の戦いは遠距離での戦いばかりで滅多に槍を合わせての戦闘というのがなかったため、こういう話が出たのでしょう。ましてや上方での槍合わせは滅多にないので運が良かったということなのだと思います。
 この話しには続きがあり、『長瀬小右衛門は銀の牛の舌の黒母衣で、勝曼院で槍を合わせた。今回の大坂城攻めでも長瀬の小屋印に銀の牛の舌の黒母衣を掲げていた。それを誰かが見つけて「かつて槍を合わせた黒母衣はここにある」と言ったため、たくさんの人が小屋の前に集まった』と書いてありました。

UPDATE 2013年3月16日
Copyright (C) 2012 Tikugonokami.