秀頼の心境

 大坂城の落城が近い1615年5月上旬、豊臣秀頼は近江出身で学の心得がある高木仁右衛門(号・宗夢)に自分の心境を語った。
「私は幼い頃に父と別れ、武士の家に生まれながら風流に過ごし武道を学ばず、合戦のことは聞いたことはあっても見たことがなかった。そんな時に片桐且元が方広寺鐘銘事件で、三ヶ条を突きつけられ、従うことが出来ず、父の遺言に任せ、この城を墓所と定めて籠城の用意をした。そこに浪人達が集まり雪の中にも関わらず奮戦してくれ、日本中の大軍を引き受け一度も負けなかった。これは私の力ではなく、譜代の者や浪人達のおかげだ。しかしその恩に報いず和睦し浪人達を召し放つことになった。だが和睦は私の望むことではなかった。ことに浪人達には約束を違え、その上、彼等に与える兵糧もなく、人として恩を受けた者達に報うことができなかった。これは禽獣にも劣る行為だ。宗夢はどう思う」

大阪城
豊臣家の牙城・大阪城

 秀頼に遠慮せず答えた。
「秀頼様の言うことはもっともで今更、私の言うことはありません。今までのことを考えるに名将も時には思慮が足りなかったこともあり、失敗は時運(時のめぐり合わせ)によると学んでいます。まず時を得たのは、御父・太閤が明智光秀を滅ぼし、柴田勝家・滝川一益ら英雄を滅ぼし、天下を治めた時です。また時運を失ったのは、織田信孝を自害させ、織田信雄を配流し、織田家を潰して関白職を汚されたことです。また長束正家という算術人を愛し、彼の悪知恵を用いて太閤検地を行い、百姓達を苦しめました。その上、大坂や伏見城の普請で莫大なお金を消費し、朝鮮出兵で朝鮮半島の人達の耳や鼻を削ぎ、益のない大仏殿を建てられた。しかし程なくして石田三成が秀頼様の名を借りて反逆を企て負けてしまい、自然に御威光が衰えてしまいました。ですが、これらは時運を失うことではありません」

淀君並殉死者三十二名忠霊塔
大坂城にある淀君並殉死者三十二名忠霊塔

 仁右衛門は言葉を続けた。
「日本で取れる穀物は日本の民を養うために天地より生じるものです。その米財を奪ってことごとく蔵に入れるのは神の物を奪うようなものです。金銀は民の涙です。その涙で神仏を建立しても神はそれを嬉しいとは思いません。その上、母上の淀殿は秀次公を憎んでその家族を滅ぼし、これらの憎悪を積み上げてきました。恐れながらそららが秀頼様に報いて現状のように御身に迫っています」(『明良洪範』)

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