秀頼、出馬せず

 天王寺・岡山での最終決戦で、真田幸村は茶臼山に赤旗備えで天王寺から岡山東に陣を構えた。この時、豊臣秀頼がフットワークが軽い大将ならば当日の未明には先陣まで出馬して味方に命令し、士気を上げただろう。勝負は時の運なので例え負けても天王寺の鳥居の前で床机を据えて死を覚悟して座っていたなら、どんな弱兵でも逃げ出すことはしなかっただろう。
 そうすれば古今に比類なき戦いとなっていただろうが、実際は出馬が遅れてわずかに馬印だけを使番に持たせて八丁目口に行かせ、秀頼自身はようやく二ノ丸まで移動しただけだった。時間が過ぎれば滅亡すると思えたところに、八丁目口に向かった20人の使番が相談して
「このままでは旗本の人数が少なくこちらが不利だ。このことを急いで本丸に報告しよう」
 ということになったが
「私が戻ろう」
 と名乗り出る者は誰もいなかった。
「ここに来てください、と言う使番を通じて伝えるだけだと例の長評議なのでらちが明かないだろう」
 大坂庄司之助という小人頭が提案した。そこでクジで決めようということになって林伊兵衛という使番が当たり、本丸に戻って
「状況が不利だ」
 と言上したが、秀頼はそれでも出陣しなかった。
 そのため大野治房は伊兵衛を連れて、幸村と毛利勝永の陣に行き
「秀頼様もただいま出馬しました」
 と仕方なく嘘をついた。そこに松平忠直の軍が来て合戦が始まり混戦となって、御宿政友を始めとして天下に名の聞こえた武将がことごとく討ち死にした。幸村・勝永・石川肥後・大野治房は誰もが今日を最期と奮戦し、徳川軍は何度か敗れたが、豊臣軍を突破した兵が城に火を放ったため、豊臣軍の主力は敗れてみんな討ち死にしている。『山本豊久私記』

秀頼の首塚
京都市右京区嵯峨の清凉寺にある秀頼の首塚

管理人・・・「例の長評議」って表現が酷いですね。

UPDATE 2014年2月16日
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