蝋燭

 本多忠朝は参勤の度に幕府に蝋燭を献上していた。その蝋燭は他のより優れていたので徳川家康から褒められていた。
 ある時、忠朝が夕方に出仕して領地の魚を献上すると、老中達一同が「忠朝殿が献ぜられる蝋燭は将軍家が大変気に入られている。今回も蝋燭を献じるように」と伝えた。そのことを知らなかった忠朝は「その支度がない」と困り果てた。
 その話を聞いた本多正純がある忠告をした。
「それならまず納戸にある蝋燭を献上すればいい」
 忠朝は喜んですぐに納戸の蝋燭を献上した。忠朝が出て行った後、徳川家康に家臣の者が蝋燭を見せると、蝋は滝のように流れて光は油火よりもかすかだった。その様子を見た家康は忠朝を酷評した。
 「忠朝の父・忠勝は武勇だけでなくこのようなことでも落ち度がなかった。忠朝は父に似てない男だ」(『難波戦記』)

管理人・・・その後、大坂冬の陣の時に忠朝が自分の攻め口が攻めづらいので家康に代えてくれと頼んだところ、家康が「昔は攻め口が難しかったり敵が強いと逆に頼んだりしたものだったが、今時の若者はそれを嫌うのか。父にも似合わない不届き者だ」と本多正信に不満を漏らしたため、2度の屈辱に討ち死にを覚悟したそうです。
 忠朝は関ヶ原の戦いで本多忠勝の馬が島津義弘の兵に討たれて徒歩となってしまい、兵14〜15人に囲まれた際に、一番に駆け付けて危機を救ったほどの剛の者だったと同じ『難波戦記』に載っています。

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