又兵衛、広島を去る

 1606年に黒田家を出奔した後藤基次は豊前小倉の細川家に行くが、黒田長政が猛烈に抗議したため、居られなくなり去った。
 そこで昔、仲の良かった福島正則の老臣の尾関石見・福島丹波・長尾隼人を頼って安芸広島に行った。広島に着いた基次は老臣達と会談した後、宿に泊まって成り行きを見守っていた。その頃、老臣達は正則に訴え出て諌めていた。
「今度の黒田家・細川家の騒動は基次から出たものです。召抱えるのは控えた方がいいと思います」

 しかし騒気(争いを好む気質?)の正則は納得しなかった。
「長政や忠興を恐れて後藤のような智勇の士を召抱えないと言われては私の面目が立たない。前から言っているように3万石で基次に召抱えるように伝えろ」と逆に厳しく命令した。
 老臣達はその場はおとなしく引いたが、後で話し合い「召抱えないのは納得していただけないだろう。だからと言って、騒動になるのが分かっているのに基次を召抱えるのは不忠になる。惜しい武将だが基次から辞退するようにさせよう」という結論に達した。

小倉城
北九州市小倉北区城内2−1にある小倉城

 そして基次に対して正則の言葉を曲げて伝えた。
「主人はあなたの武功に感ぜられ奉公されれば3万石にて召抱えるということです。主人が言うには『黒田家と同じく3万石ならば基次にも不足はないだろう。奉公して忠勤に励め』とのことです」
 基次は機嫌が悪くなり「福島家の家風なら千石や二千石、あるいは200石でも奉公する。しかし黒田家で3万石だったから福島家でも3万石となっては、私の武功はそのくらいだと決まったようなものだ。福島家で何かしようという望みがない」と答えた。老臣達は示し合わせたことなので内心は喜んでいたが、気の毒そうな顔をしてもう一度進めたが基次は受けなかった。
 これを知った正則は誤解し怒り出した。
「譜代を越える大禄をもって召抱えようとしているのに、基次は武功に奢る曲者だ。放っておけ」

 召し抱えの話は無くなったが、基次が老臣達の勧めで広島に逗留していると、福島家の若者達が福島丹波のところに来て尋ねた。
「3万石にて召抱えるというのを断るとは、基次はどれほど器量のある武将なのでしょうか」。
 すると丹波は不快な表情を見せ「当家の老臣達は2万石を領しているが、私は足が悪く、尾関石見は三口(口唇裂:顔面裂奇形の一種。口唇の先天性破裂をいう。多くは上口唇の人中(じんちゆう)の側方唇裂で、兎唇(としん)ともいわれる)、長尾隼人は一眼だからだろう。とにかく今度彼を呼んで器量を見せよう」と答えた。

広島城
広島市中区基町21−1にある広島城

 その後、基次を招いて饗応の後に尾関石見が言葉を正して「この前の関ヶ原の合戦で石田三成敗北の時、敵兵5〜6千が山の陰に隠れていたので、若侍達に私が追討の命令をしようとした時にあなたが来て『尾関石見の手か。山陰に敵兵がいる。追撃しろ』と命じた。あなたが先に命令して首級を得たので私の功は後藤又兵衛が指図したと世間の者に言われた。日頃に似合わぬ卑怯未練の行動に対して不満があったが機会がなかった。今回会ったのは幸いだ。鬱憤を晴らしてやる」と目をつり上げて迫った。
「その時のことは覚えている。しかしそれはあなたのひがみだ。石見殿は私の指図を受ける立場ではないし、またその逆もありえない。山陰に敵兵が見えたので、あなたの部下だと知って言ったのだ。他人の功を奪う私ではない。いかに私が浪々の身だからと言って事実無根のことを言われて、よくそのようにむごく責められるものだ。あなたこそ卑怯未練だ」  基次が笑ったため、石見も共に笑ってその場は終わった。
 さて基次が帰った後に老臣達が若侍達に言うには「基次の器量を見たか。今、浪人の身なので追従をするべきなのに石見の言ったことを咎めた。3万石を与えられるのに不足ない器量の証だ」と誉めた。

関ヶ原古戦場開戦地
岐阜県不破郡関ヶ原町にある関ヶ原古戦場開戦地

 その後、正則は老臣達に向かって「基次の器量は兼ねてから知るところだ。今まだ逗留しているので城に招いて饗応して席上でその智謀勇才がどのようなものか見せてもらう」と言い基次を呼んで酒を振舞った(ただし基次は下戸だったので茶を出してもらった)。
 そこで正則は黒田長政に恥をかかせようと思って長政から受け取った悪筆の書簡を取り出し「黒田家は大禄にも似合わず字の上手な者がいない」と冷笑して見せると、基次は「黒田家は家臣が多いので字が上手い人間も多い。しかし送り先の主人の字が下手ならそれに合わせて送り、字が上手なら綺麗な字で送るのが家風です」と逆に正則を辱めた。
 そのように何事にも差し支えがある智謀だったため、うまくいかず基次は広島を立ち去っている。(『慶長摂戦記』)

福島正則の墓
広島市東区牛田新町3−4−9の不動院にある福島正則の墓

管理人・・・本文では本筋とずれるため書きませんでしたが、又兵衛は細川家から出る際にお金をもらって京都に行っています。しかし僧侶や公家さん、町人ばかりで居心地が良くないため、大坂から舟で広島に行っています。私はずっと小倉から広島に行ったものだと思っていましたがそうではなくていったん京都に行ってからだったんですね。

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