本多正信の策略

 1611年3月28日、豊臣秀頼徳川家康が対面した。そのあとに家康は本多正信を召し出して不安を口にした。
「秀頼は賢い人物だ。なかなか人に助言を請うことなどはしないだろう」
「私に策略があります。お任せください」
 秀頼の妻は徳川秀忠の娘・千姫だったため、正信は「秀頼公は日本の主なので豊臣家の血筋が相続されるようにしないといけない。そのため必ず美人を見つけ出しそばに置くように。これを邪魔する者は女でも容赦せず罰を与える」と堅く申し付け、千姫の御付きの女房達をすべて自分で選んだ。

 正信は秀頼の近習達に会い「秀頼公は生まれつき賢くいろんなことに心を配っておられるが、それを家康様がことのほか心配しておられる。若いのに何かと気を使っていると癪をわずらわれるかもしれません。このことは大切なことなので、秀頼公の耳に入れて、歌・舞・酒宴・猿楽などをして養生を第一にするべきだ。かけがえのない体だから健康に成長することこそ肝心だ」と親身になって助言した。大坂城の人達は「知恵深い正信が言うならもっともな言葉だ」と感心し、気にするものがいなかった。
 そのため、秀頼は猿楽や歌そして酒色(お酒と女遊び)に夢中になって政治などはまったく関知せず、ましてや下々の者の気持ちなど気にせず、うかうかと暮らしてついに豊臣家を滅亡してしまった。(『明良洪範』)

豊臣秀頼の首塚
京都市右京区嵯峨の清涼寺にある秀頼の首塚

管理人・・・正信が女中を選んだとき、婦人達は上下ともに嫉妬したんだそうです。

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