豊臣秀頼生存説(薩摩編)

 1615年5月8日、豊臣秀頼は自害し豊臣家は滅びた。しかしこの時、遺体が見つからず実は生きていたという説がある。秀頼は敵の手薄な北西方面から真田幸村の造ったオランダ船で脱出し、10人ほどで薩摩まで逃げ延び種ヶ島蔵人と名乗り谷山地方に隠れ住んだという。後年、寛永年間(1624〜1644年)に秀頼は鎧を直してもらうために京都の具足師のもとを訪れた。
『これは太閤の鎧ではないか』
 具足師が鎧を見た際に発言したという記録が残されている。

 薩摩で秀頼は一つの逸話を残している。大男の秀頼は城下街のお店でよくお酒を飲み度々暴れ、お金を払うと言うことを知らなかったため、ただ食いして帰っていったという。そのため現在でも谷山地方ではただ食いのことを『谷山犬の食い逃げ』という。
 また高野山の僧が秀頼らしいという噂があるなど、各地に様々な話が残っている。

伝・豊臣秀頼の墓
鹿児島市谷山中央四丁目にある伝・豊臣秀頼の墓

管理人・・・鹿児島県には木下さんという秀頼の末裔を名乗る方がおられ、墓もありますが真相は不明です。

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