追腹

 天王寺・岡山での最終決戦小笠原秀政が討死した際、近習の10人の内9人は秀政と共に討死した。しかし島館弥右衛門だけは他の場所で戦って生き残ったため、口惜しく思っていた。
 陣後、秀政・忠脩親子の追善(死者の冥福を祈るため遺族などが読経・斎会などの善事を行うこと。また、死者の年忌などに仏事を営むこと)があり、99日目に弥右衛門はあることを妻に命じた。
「明日は舅のところに行って精進落ち(精進の期間が終って肉食すること)をしろ。今日は子供を連れて両親(弥右衛門の両親か?)のところに行け」
 妻はこのことを舅に話し
「何か納得がいきません」
 と言ったところ、舅は驚いて弥右衛門のところに行き
「娘から話しを聞いた。貴殿には怪しい覚悟(追腹)があるように見える。10人の内、たった一人生き残ったとて卑怯なことではない。もしそのことについて思慮が足りない心があるのなら卑怯だと意見しようとここに来たのだ」
 と止めようとした。しかし弥右衛門は
「そのように見えるとは。さてこれは思いもよらぬことを言われるものだ。家族は何を見てそのように言ったのだろうか。今まで一度もそのようなことを思ったことはなく、もし沙汰もなく追腹をしたなら大きな恥とも疵ともなる。決してそのような沙汰はないだろう」
 と話した。
 舅はそれを聞いて安心して帰ったが、翌日弥右衛門のところに行くと追腹をして亡くなっていた。遺書には次のように書かれていた。
「大坂で殿様に可愛がられた10人の内9人迄が側で討死した時に、私が違う場所で戦って一人生き残ったことは口惜しいことこの上ない。帰陣後、すぐに追腹をしようとしたが、忠脩様から『成り行き上の討死は戦次第だ。生き残った上は自分の考えで命を好きにしてよい』と言われた。そこで残った仕事を全て終わらせてからにしようと思っていたところ、法事中に少しも残さずに終わったので今日お供をした」
(『武功雑記』)

管理人・・・その後、弥右衛門の息子は小笠原家の家老となって病死したそうです。また秀政は上記の10人の小姓は容貌ではなく心の正しさを見て寵愛されたそうです。

UPDATE 2013年7月29日
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