召抱える基準

 1627年に細川忠興の家臣だった藪三左衛門正利が2千石で徳川頼宣に召抱えられた。その前に喜多村孫之丞が2千石で召抱えられていたが、これは朝鮮出兵や関ヶ原の戦いの時の加賀大聖寺攻めなど度々の手柄があってのことだった。しかし正利は大坂夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦ただ一度の手柄だけだったため、孫之丞は
『なぜ私と同じ知行高なのだ』
 と心に含むところがあった。
 ある日、真鍋五郎右衛門貞成のところに孫之丞と正利が来た。貞成は正利に対して
「貴殿は幼少より忠興殿に奉公し、どんなことに対しても立ち振る舞いも立派で、ことに年も若い(当時33歳)。大坂の陣でのこともあれば殿様(頼宣)の掘り出しものだ。よく奉公しろ」
 と誉めた。しかし正利を快く思わない孫之丞は
『たった一度の大坂の陣での功で2千石で召し出された人間を掘り出しものとは不思議なことを言う』
 と内心穏やかではなかった。
「貞成殿は正利殿を誉めすぎです」
「大坂の陣の手柄だけで掘り出しものだと誉めた訳ではない。武辺に覚えのある侍も、そのことを自慢したなら召抱えられるのは難しいだろう。正利殿のことは忠興殿の小姓として立ち振る舞いもよく年も若くて仕事もよくこなしていた。また大坂の陣のこともあるので掘り出しものだろうと言ったのだ。貴殿はおかしなことを気にして咎めるものだ。武辺自慢とのことで咎めるのだったら私の前でその方は話す資格はない」
 貞成が厳しく窘めたため、孫之丞は
「私の誤りでした」
 と謝罪し事が済んでいる。(『武辺雑談』)

紀州徳川家の居城・和歌山城
紀州徳川家の居城・和歌山城

管理人・・・・・・貞成は同じ事を二度口にしていますよね。孫之丞は頭に血が上って『大坂の陣での武功』という言葉しか耳に入らなかったのでしょうか。
 貞成がどんな人か分からないですが、話から察するにかなりの戦場を渡ってきた歴戦の勇士だったんでしょう。

UPDATE 2013年8月25日
Copyright (C) 2013 Tikugogawa.