火刑

 大野治胤は大阪落城後、京都の養源院に逃れたが、奉行所に訴えがあり6月上旬に捕縛された。京都所司代・板倉勝重は暑い時期だったので治胤を労り、高手(肘から肩までの間の称)を縛って小手(手先)を自由にしたが、治胤が警護の侍の脇差を掴んだので取り押さえられて小手も縛られた。
 治胤が捕まったことを知った堺の町人達は奉行所に
「堺の地は仏法や神道が繁盛してたくさんの寺社仏閣があったが、この春に治胤が火を放ったため、すべてが灰燼に帰した。治胤は仏や神の敵の長だから平重衡(平清盛の子。1180年源頼政らを宇治に倒し、南都の東大寺・興福寺を焼く。一ノ谷の戦いで敗れ、捕らえられて鎌倉に送られたが、南都の衆徒の要求で奈良に送還、木津川で斬首された)の例に準じて我々が受け取り、罪科を言い渡したい」
 と、しきりに希望したのでその通りになった。(『難波戦記』)

大野治胤の墓
大阪府堺市堺区柳之町東2−2−7の月蔵寺にある大野治胤の墓

管理人・・・このあと、治胤は有名な火あぶりの刑にされています。実際に堺市に行くといたるところの寺社の案内板に『大坂夏の陣で兵火にあって焼けた』と書いてあり、かなり手酷く焼き討ちしたことが分かります。

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