遺品を求めて

 藤堂高虎の家臣、磯野行尚八尾の戦いで大将らしき人物の首を獲った。それが誰なのか調べてみたが誰も知る者がいない。陣後の1615年8月に論功行賞があり、行尚は200石を加増された。

長瀬川
増田盛次が戦死した大阪府八尾市に流れる長瀬川

 それから5年程過ぎたある日、一人の老女が行尚の屋敷を訪ねてきて行尚を呼び出した。
「先年の大坂の陣で、錦の羽織を着た大将を討ち取り、その者が身に付けていた刀3本を取られたと聞きましたが間違いありませんか」
「なるほど、その通りだ。太刀の1本は沢田忠次の家来に助けてもらったお礼として渡した。その他の2本と錦の羽織は私が持っている」
「どうかその品を一目見せてください」
「女の身で武具を見てどうするのだ」
 行尚が尋ねると老女は涙を流して
「その大将は増田盛次殿です。私は盛次殿の乳母です。大坂夏の陣の際、盛次殿が大坂城に入られると秀頼様は非常に喜ばれ、自らの手で錦の羽織と2本の太刀を下さり、足軽3000人の大将にしてくださいました。私は女なのでよく分からず元の大将に戻られたことを喜んでいたところ、5月6日の夜中に出撃されて、それ以降、音信不通となりました。そこで盛次殿に付けられていて逃げ帰った者に尋ねると『平野(ひらの)近くまでお供しましたが、それ以降は分かりません』『平野で討死されたのを見た者がいます』などと言われました。私は口惜しく悲しく思ったので、せめて遺体を見つけ出し葬ろうと思いましたが、女の身なのでどうしようもなく、その日を命日として成仏されることを祈りました。しかし墓もなく苦しい思いをして日々を過ごしておりました。しかし最近、人の噂で『藤堂様の家臣の磯野行尚と言う方が錦の羽織を着た大将を討ち取ったが、その姓名が分からない』と聞き、盛次殿かどうか確かめに来ました」
 と事情を話した。

増田長盛の墓
埼玉県新座市野火止3−1−1の平林寺にある増田長盛の墓

「そのような話しだけでは本人かどうかはっきりしない。その錦の羽織の家紋はどういったものだ。色は何色だ」
 行尚が尋ねると、老女は刀や羽織の特徴を話した。それが行尚が所持しているのと少しも違わなかったため『これは間違いない』と思い、羽織と刀を持ってきて見せた。
 そして行尚は、老女の心中を察して哀れに思い
「この内、一品だけどれでもいいから与えよう」
 と言うと、
「この短刀は盛次殿が出生の時に父の長盛殿より遣わされた品なので、常に肌身離さず持っておられました。それ故、これを私にください。もし下されたのならば、仏壇に置いて盛次殿を弔います」
 とお願いしたので、行尚はその吉光の短刀を渡した。このことで行尚は討ち取った相手が判明し、1619年10月に300石が加増され鉄砲頭になったという。(『元和先鋒録』)

管理人・・・この後に二人の人間が盛次の行動について議論しています。内容を要約すると『盛次は討死を覚悟していたが、父の長盛に迷惑がかかるといけないので、どこにも名前を記さずに死んだ。しかし結局、長盛はその年に自害させられている。だが盛次のことがばれたわけではなくて、陣も終わって邪魔なので殺されただけだ。盛次は忠義のために死んだので、一時の色情に惑わされて徳川家を離れて死んだと言うような噂は信じるに足らない』となっています。

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