秘蔵の鬼孫

 大坂夏の陣後、小笠原忠真天王寺・岡山での最終決戦で受けた傷の養生で京都にいた。1615年6月27日、大坂落城を見届けた徳川家康は伏見城に入り諸将の働きに感動し祝儀の能を催すよう命じた。辰の刻(7〜9時)を過ぎた頃、忠真が到着したため家康は能を始めさせ、諸将に忠真を紹介した。
「私の秘蔵の鬼孫を見ろ」
 その後、7月17日に忠真は伏見城に呼ばれ、家康から父・秀政の家督と遺領の信濃8万石を継ぐように命じられている。(『小笠原代々記・譜牒余録』)

管理人・・・この時に忠真は旅行の際、長柄の日傘を使用することを許されています。これは忠真の傷を労わったためで、小笠原家は江戸時代を通じてその日傘を使用していたそうです。

UPDATE 2013年6月23日
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