正信の機転

 1614年12月2日早朝、徳川方の諸大名達は大坂城に陣を近づけた。全軍、命令通り音も立てずに待っていたところに、井伊直孝軍が陣を寄せたと同時に一斉に鉄砲を放ち鯨波(とき)の声を上げた。これに付城の中の者はもちろん全軍が騒ぎ出した。
 徳川秀忠は驚愕し、本多正信に向かって
「これを大御所様が聞かれたら切腹になるだろう。急いで住吉(徳川家康の本陣)に行き、井伊家の家老数人を切腹させて、それで済ましてもらうように取り成してくれ」
 と頼んだ。そこで正信は住吉に行き家康の前に出たが
「どうしたものか」
 と悩んで黙っていると、家康が口を開いた。
「どうした。何のための使いに来たのだ。おそらく今朝、直孝の手の者が鉄砲を撃ったことだろう。さてさてやはり直孝は直政の子だ。陣替えで一斉に城中へ鉄砲を撃ち掛けきっかけを作った働き、感じるところがあった」
 正信が笑って
「親子がこれほど意見が合うとは不思議なことです。将軍様(秀忠)も喜ばれ、すぐに私に使者として行き大御所様のご機嫌を伺うようにとの命令で参りました」
 と何気ない顔をして言うと
「将軍もそのように思っているか」
 家康は満悦の体で答えている。(『大坂御陣覚書』)

井伊直孝の墓
東京都世田谷区豪徳寺の豪徳寺にある井伊直孝の墓

管理人・・・この後に続く文章は『正信が経験豊富で物事に馴れていたため上手く収まったのだと世間で噂になった』となっています。

UPDATE 2011年7月24日
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