城外出撃策

 大坂冬の陣の時に大坂城五人衆らが城から出撃し敵を迎え撃つと主張し、それを豊臣軍首脳部が採用せずに籠城することになった、となっているが、実際はどうだったのか。
 実際は主張したと言われる資料に信憑性がなく、しかも出撃したとしても幸村の策通りに軍を進めるのは困難と言われている。真田昌幸は籠城が得意だったため、その子の幸村もそれに倣っただろうと思われる。次善の策と言われている真田丸はそうではなく最善の策ではなかったのだろうか。

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