家康、又兵衛の入城を誉める

 大坂冬の陣で後藤基次が入城した際、徳川家康は再三、基次を誉めた。
 その理由は、基次は元は黒田長政の家臣だったが、訳あって立ち去って大坂近辺に流れ着いた。長政はなんとか連れ戻したいと思い、背が高く腕の立つ男達を30人ほど集め「基次親子を連れ戻したら褒美は望みのまま」と言い大坂に行かせた。
 男達は簡単なことだと言って引き受けたが、基次は腕が立つ上に用心していたので近寄ることさえ出来なかった。そこで堺にいた基次の息子を連れて帰った。
 長政は喜んだが、それを知った豊臣秀頼が「大坂近辺に住む浪人は豊臣家の御家人同然となる。しかも浪人の意見も聞かず勝手にさらっていくことは不届千万の行為だ」と怒り出した。
 そこで長政は息子を返して今度召抱えた男達を豊臣家へ引き渡した。豊臣家はそれを堺で磔にして処刑。基次はそのように大事に扱われたので秀頼を大事に思い、秀頼が篭城すると恩を返すのはこの時だと考え入城した。
 そういった事情があったため、家康は「篭城はもっともなことだ。さすが名のある武将」と誉めたのだ。(『老士物語』)

伝・後藤又兵衛夫妻の墓
愛媛県伊予郡松前町大字筒井315の大智院にある伝・後藤又兵衛夫妻の墓

管理人・・・上記の『背が高く腕の立つ男達』はその当時流行していた人達だそうです。歌舞伎者のことでしょうか。
 しかしなんで後藤親子は離れて暮らしていたのかが分かりません(又兵衛は大和で息子は堺)。息子は安全のために知人に預けていたのでしょうか。

Copyright (C) 2003 Tikugonokami.