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大坂夏の陣
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和議成立【決定打】徳川軍は直接大坂城を攻めることはなかったものの、相変わらず砲撃による攻撃だけは続けていた。1614年12月16日、そのうちの1発が淀殿の居間に命中し、そこにいた侍女8人が死亡する。片桐且元の指示によるものであった。この事態を受けて下交渉が進んでいた和議の話が豊臣家の会議で正式に話し合われる。 【震える徳川軍】一方の徳川軍もかなり辛い状況であった。屋外にいる彼らは、敵の前に寒さと戦わなければならなく、薪の代わりにになるものはなんでも使用するという有り様だった。特に両軍の中でもっとも最高齢であった徳川家康にはことの他、辛かったであろう。
1:大坂城は本丸以外を破壊する。 2:大野治長と織田有楽斎の二人は息子を人質として差し出す。 3:豊臣軍の譜代・浪人問わず処罰しない。 というものだ。この和議を知った浪人達は「これは家康の罠。なぜ有利に戦いを進めているのに、和議をしなければならないのか」と一斉に反対する。だが、その意見は却下され、12月22日までに、徳川軍の砲撃の中止、豊臣軍の人質の差し出し、和議の誓書の交換がなされ、和議が成立する。 【埋め立て】1614年12月23日、豊臣家の人々は我が目を疑った。徳川軍が早々と堀の埋め立てを始めていたのだ。これは確かに条件の1つであった。しかし豊臣家上層部は「双方の兵も疲れているし、実際の堀の破壊となると徳川家の連中も躊躇してなかなか工事が始まらないのではないだろうか」と考えていたため、驚きを隠せなかった。数日後、徳川軍の努力の甲斐があって総堀はすべて埋めつくされた。その後、徳川軍は間髪入れずに三の丸の埋め立てにかかった。
これこそが家康が今回の和議を結ぶ上でもっとも重要視したことであった。豊臣家の連中を上手く騙し、和議の条件の中に堀を埋め立てる項目を作り、強引に全ての堀を埋めてしまう。そして大坂城を裸にした後、豊臣家を好きに料理する。その策略に豊臣家上層部は簡単に引っ掛かってしまったのだ。家康は大坂を去るとき「堀を3歳の子供でも昇り降りできるくらいにしてしまえ」と、命じていったという。その時の大坂城はまさにその通りになっており、本丸があるだけの裸城になってしまっていた。 【帰城】1614年2月14日、家康は駿府城へと戻る。京で天皇への停戦の報告や、越年をしたと言っても驚くほどの遅い帰城であった。理由は大坂で何かあったときに、すぐに戻れるようにするためである。他にも鉄砲鍛冶の村で有名な近江の国友で、大筒を大量注文をするなど、家康に停戦の意思はまったく見られなかった。
【反故にする】その会見の場で「このまま秀頼が大坂に居て浪人衆を雇っていたのでは、良からぬ噂がこれからも立つだろう。そこでわしは豊臣家の伊勢か大和への国替えか、浪人をすべて追放した方がいいのではないかと思う。その方が天下のためであろう」と提案する。明らかに条約違反なのだが、浪人衆が実際に放火の計画を立てている可能性がある豊臣家は強気には出られなかった。 Copyright (C) 2000-2006 Tikugogawa. |
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