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大坂の陣のあらすじ≫
【概略】
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大坂夏の陣
しかし実際は大坂を攻めるための口実でしかなかった。名古屋で婚姻を見届けた家康はそのまま京へ向かい、18日には二条城に着いた。4月24日、家康は豊臣家の使者を呼び出し、前回と同じ提案(浪人の解雇・秀頼の国替え)をする。家康は豊臣家の意見が変わらないのは分かっていたが、形式としての交渉決裂をしておきたかったので伝えたまでであった。
翌日には、浅野長晟の領土、紀伊を攻める。こちらも堺と同じくさほどの戦略的価値はなく、豊臣家との縁の深さを無視して徳川家についた背信行為に怒りを覚えた豊臣家上層部の感情にまかせての攻撃であった。しかしこちらは豊臣軍の先鋒の暴走のせいで敗北してしまう(樫井の戦い)。 1615年5月5日、いよいよ家康が動き出す。二条城を出て河内の星田に本陣を置いた。この出撃の時、家康は食料担当の者に「今回は短期戦だから、三日分の腰弁当でよい」と指示した。3日で豊臣家を滅ぼす自信の現れであった。
1615年5月、後藤基次・毛利勝永・真田幸村らは大和路の別働隊を討つ為に、長宗我部盛親・木村重成らは河内路の本隊を討つために出撃する。5月6日、まずは大和路の道明寺で戦いがはじまる。霧のために到着の遅れてしまった他の隊を残して、後藤基次隊が単独で敵の大軍相手に戦闘を開始してしまったのだ。そのために又兵衛は戦死し、後藤隊は壊滅する。その後、遅れて着いた毛利勝永・真田幸村らの隊は、敵を相手に善戦するが、河内路方面の戦いが敗北に終わったことを知ると、大坂へ撤退した(道明寺の戦い)。 一方、河内路でも激しい戦闘が行われていた。木村重成隊は若江で(若江の戦い)、長宗我部盛親隊は八尾でそれぞれ戦うが(八尾の戦い)、戦力差は如何ともしがたく、木村重成は戦死、長宗我部盛親隊も撤退を余儀なくされた。
作戦の詳しい内容とは、真田幸村・毛利勝永・大野治長・大野治房が秀頼の出馬と共に、徳川軍に真っ向から攻撃し、敵がそちらに気を取られている間に、明石全登が敵を迂回して本隊の背後から奇襲し、家康の首を取るというものだ。だが大事な秀頼の出馬が淀殿の反対にあい、取り止めとなってしまい、また徳川軍の進撃が予想より早かったため、作戦を変更せざるを得なくなってしまった。 【最後の意地】「だからと言ってすべてが終わった訳ではない。すべての気力を振り絞って突撃すれば、もしかしたら、、、」。豊臣軍の武将達は奇跡に近い可能性にかけて攻撃を開始した。すでに死を覚悟していた豊臣軍の猛攻はすさまじく、毛利勝永・真田幸村隊らは何重にもなっている敵陣を突破し、家康の本隊へ突撃。大野治房隊らも、同じく敵陣を突破し秀忠の本隊へ突撃した。特に真田幸村隊の攻撃が一番すさまじく、一時は家康が死を覚悟したほどであった(天王寺・岡山での最終決戦)。しかし豊臣軍の勢いもそこまでであった。後詰がないため、敵が態勢を立て直すと、力尽き次々と討たれたり撤退していった。
ここに応仁の乱から続いた戦国時代が完全に終わることとなった。 UPDATE 2000年3月12日 Copyright (C) 2000 Tikugogawa. |
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