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大坂冬の陣
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関ヶ原〜大坂の陣開戦まで
そのあと、すぐに秀頼を亡き者にすることができれば、天下を取ることができたであろう。だが東軍の大半は豊臣系の武将が占めており、そんなことをすれば彼らを敵に回して再び戦となってしまう。そうすれば、日本中が大混乱に陥り、今までの苦労が水の泡になってしまう。 【鳴くまで待とう】そこで家康は『いきなり武力で豊臣家を滅ぼそうとはせずに、徳川家の基盤を徐々に固めていき、それと同時に豊臣家を孤立させることに力を注ごう。そして頃合を見計らって豊臣家を滅ぼすか、逆らわなければ一大名として残してやるか』と考える。家康は完璧な形で天下取るために再び機会を待つことにした。 【征夷大将軍】1603年、家康は征夷大将軍に任命される。今までの歴史の流れでいくと、これで徳川家は武家の棟梁になったことになる。このために豊臣家は家康に対して警戒心を持つ。だが、その2ヶ月後に孫の千姫が秀頼の妻として大坂に嫁いで来たので、『秀吉の遺言を守った。家康は豊臣家を大事に思っている』と豊臣家の人間達は安心する。しかし、これは『今はまだ豊臣家と事を構えるのは得策ではない』と読んだ家康の懐柔策の一つに過ぎなかった。だが、これに豊臣家の人々が気がつくことはなかった。
【天下普請】家康は、関ヶ原の戦いに勝利した翌年から、諸大名に徳川家関係の城の築城・修築の手伝いをさせている。徳川家の基盤強化と、他大名の財政圧迫、それと徳川家の忠誠度テストと一石三鳥を狙った政略だった。1601年から1614年の大坂の陣直前までの間に6つの築城、5つの修築をさせている。諸大名への負担はかなりのものであったらしく、耐えかねた福島正則が泣き言を言ったのは有名な話である。
【方広寺の鐘銘】1614年8月、徳川家は豊臣家が再建した方広寺の鐘の銘文に、問題があるものがあるといい抗議をする。その文句とは『国家安康』『君臣豊楽』の二つであった。『国家安家』は家康の名前を分断し呪っており『君臣豊楽』は豊臣家を君として繁栄を楽しむというものであった。
【忠臣】だが且元はそれでも豊臣家のためを思い必死に上層部を説く。しかし彼らは且元の言葉をまったく聞かないばかりが(上層部から見ると)裏切り者の彼を亡き者にしようということまで考える。それを察知した且元は兵を率いて茨木城に退去する。これを知った家康は「自分が信頼していた片桐且元を城から追い出すとは言語道断」と激怒(したふりを)する。これにより徳川・豊臣の本格的な戦いが始まることになった。 UPDATE 2000年3月11日Copyright (C) 2000-2006 Tikugogawa. |
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