関ヶ原〜大坂の陣開戦まで

【誰が天下の主なのか?】1600年9月15日、関ヶ原の戦いで徳川家康は東軍を率い勝利を収める。しかし、勝利=天下を取る、という風には簡単にはいかなかった。なぜなら形式上は豊臣秀頼の命を受けて、反乱軍を征伐したということになっていたからだ。
 そのあと、すぐに秀頼を亡き者にすることができれば、天下を取ることができたであろう。だが東軍の大半は豊臣系の武将が占めており、そんなことをすれば彼らを敵に回して再び戦となってしまう。そうすれば、日本中が大混乱に陥り、今までの苦労が水の泡になってしまう。

関ヶ原古戦場開戦地の碑
関ヶ原古戦場開戦地の碑

【鳴くまで待とう】そこで家康は『いきなり武力で豊臣家を滅ぼそうとはせずに、徳川家の基盤を徐々に固めていき、それと同時に豊臣家を孤立させることに力を注ごう。そして頃合を見計らって豊臣家を滅ぼすか、逆らわなければ一大名として残してやるか』と考える。家康は完璧な形で天下取るために再び機会を待つことにした。

【征夷大将軍】1603年、家康は征夷大将軍に任命される。今までの歴史の流れでいくと、これで徳川家は武家の棟梁になったことになる。このために豊臣家は家康に対して警戒心を持つ。だが、その2ヶ月後に孫の千姫が秀頼の妻として大坂に嫁いで来たので、『秀吉の遺言を守った。家康は豊臣家を大事に思っている』と豊臣家の人間達は安心する。しかし、これは『今はまだ豊臣家と事を構えるのは得策ではない』と読んだ家康の懐柔策の一つに過ぎなかった。だが、これに豊臣家の人々が気がつくことはなかった。

【世襲】1605年4月、家康は将軍を辞職して、息子の秀忠に譲る。これにより将軍職は徳川家が世襲する以外はありえないことを世間に知らしめる。将軍職は家康一代限りだと思っていた豊臣家は再び不信感を持つ。だが、またも家康の懐柔策にのせられ(秀頼の官位を内大臣から右大臣に昇格させた)、特に表立った抗議はしなかった。それから1ヶ月後、家康は秀吉の正室だった高台院を通して、秀忠の就任祝いに上京するように言うが、秀頼の母の淀殿の反対で実行はされなかった。

膳所城跡
天下普請で築かれた膳所城跡

【天下普請】家康は、関ヶ原の戦いに勝利した翌年から、諸大名に徳川家関係の城の築城・修築の手伝いをさせている。徳川家の基盤強化と、他大名の財政圧迫、それと徳川家の忠誠度テストと一石三鳥を狙った政略だった。1601年から1614年の大坂の陣直前までの間に6つの築城、5つの修築をさせている。諸大名への負担はかなりのものであったらしく、耐えかねた福島正則が泣き言を言ったのは有名な話である。

【二条城の会見】1611年3月、家康は秀頼に対して二条城での会見を提案する。ここで、またも淀殿が反対する。だが豊臣家がここで拒否すれば、家康が難癖をつけて戦になると見た加藤清正と浅野幸長は『命に代えても秀頼を守る』と淀殿に誓い、なんとか会見を実現させる。これで両家の関係が改善されたかに思われたが、家康は秀頼の立派な成長ぶりを見て、ますます豊臣家を滅ぼす意思を固める。

二条城
現在の二条城

【方広寺の鐘銘】1614年8月、徳川家は豊臣家が再建した方広寺の鐘の銘文に、問題があるものがあるといい抗議をする。その文句とは『国家安康』『君臣豊楽』の二つであった。『国家安家』は家康の名前を分断し呪っており『君臣豊楽』は豊臣家を君として繁栄を楽しむというものであった。
 どう転んでも、そんな意味には取れないのだが、何が何でも開戦のきっかけを作りたかった徳川家が知恵を絞って思いついた作戦だった。この事態を重く見た豊臣家の家老・片桐且元は、徳川家への弁明のために駿府へ向かう。
 しかしそこで且元は家康に会うことすら出来ず、側近の本多正純らが出てきて「豊臣家が大坂を去られては」との提案をされる。且元は即答を避けましたが、このままでは戦になると考え、大坂への帰路についた。

【疑惑】だが且元の帰城と前後して、淀殿の遣わした大蔵卿局が駿府に到着する。家康は且元の時とは態度を180度変え、自分でこの女性に応対する。そこで家康は「私は秀頼のことを大事に思っている。だが家臣達が勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話す。それを聞いた大蔵卿局は狂喜して大坂城へ帰った。このため二つの異なった情報が大坂へ持ち帰られる事となったが、誰もが信頼が高く内容の明るい大蔵卿局の言葉を信じた。そのせいで且元は「豊臣家を売ろうとしている裏切り者」の汚名を着せられることになってしまう。

鐘の銘文
問題の鐘の銘文

【忠臣】だが且元はそれでも豊臣家のためを思い必死に上層部を説く。しかし彼らは且元の言葉をまったく聞かないばかりが(上層部から見ると)裏切り者の彼を亡き者にしようということまで考える。それを察知した且元は兵を率いて茨木城に退去する。これを知った家康は「自分が信頼していた片桐且元を城から追い出すとは言語道断」と激怒(したふりを)する。これにより徳川・豊臣の本格的な戦いが始まることになった。

UPDATE 2000年3月11日
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