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大坂冬の陣
【孤立する豊臣家】1614年秋、徳川家との戦が避けられないと見た豊臣家上層部は秀頼の名前で、豊臣家に縁の深い大名などに味方になるように使者を送る。送った相手は、南から島津家久・細川忠興・蜂須賀家政・福島正則・浅野長晟・池田利隆・前田利常・蒲生忠郷・伊達政宗・佐竹義宣といずれも有力大名ばかりで、これらが味方につけば戦況はかなり有利になるはずだった。
【徳川軍続々と大坂へ】1614年10月23日、11日に駿府を出発した家康が京に着いた。それと同時に江戸の秀忠も10万の大軍と共に大坂へ向けて進軍を開始した。この時、秀忠は関ヶ原に遅参した過去を思い出し猛スピードで大坂を目指す。そのため、10万もの大軍がわずか17日で近畿へ到着した。だが、あとで家康に配慮が足らないと窘めれている。
【豊臣軍の砦、次々に徳川軍に奪われる】1614年11月19日、徳川軍は手始めに大坂城への補給路である木津川口に築いてあった砦を攻撃する(木津川口の戦い)。同月26日には大坂城の北東の守りの強化の為に築かれた鴫野と今福の砦も徳川軍に攻撃される(鴫野の戦い・今福の戦い)。その三つとも徳川軍の勝利に終わり、豊臣軍は砦を奪われている。同月29日、今度は木津川河口の博労淵の砦を巡る戦いと、野田・福島村近くの川で水軍同士の攻防もあったが、両方ともに徳川軍の勝利に終わっている(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。初戦はほとんどすべてが豊臣軍の敗北となった。
【智将・真田幸村】大坂城の弱点である南側に真田丸と呼ばれる出城があった。その名の通り、真田幸村がその弱点を補うために築いたものだった。1614年12月4日、徳川方の前田軍以下数万の軍隊がそこへ一斉に攻撃をしかけた。連日の真田隊の挑発にのってしまったためであった(真田丸の攻防)。ここで徳川軍は甚大な被害を出し、豊臣軍は大きな戦いで初めて勝利を収める。 【夜討ち】1614年12月17日、一人の男が夜討ちを提案する。その男の名は塙直之。豪傑で知られた猛将だった。提案した理由は、双方とも容易に手を出せなくなり戦線が膠着し、士気が下がってきたので、雰囲気をなんとか変えようとしたためであった。これは見事に成功し、幕府軍は数十人の死者を出した(本町橋の夜襲戦)。この夜襲は豊臣方の賞賛を得たが、大勢に影響はなかった。 UPDATE 2000年3月11日Copyright (C) 2000-2006 Tikugogawa. |
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