堺占領

(さかいせんりょう)

豊臣軍大野治房新宮行朝隊など(兵数は本文を参照)
徳川軍藤堂高虎・向井忠勝軍など(兵数は本文を参照)
戦  場:和泉国堺

【商都・堺】堺は古くから西高野、熊野などの街道が通じ鎌倉時代からは瀬戸内海の要港として知られていた。室町時代になると対明、対南蛮貿易が盛んとなり、戦国時代にはその経済力を背景に自由都市を形成する。しかし織田信長の侵攻に降伏し直轄地とされ、その跡を継いだ豊臣秀吉・徳川家康もここを直轄地とした。

【脅迫】1614年10月、豊臣・徳川両家の交渉が決裂すると、豊臣軍は堺に軍需品の提供を求め、断れば打ち払うと脅した。それに対して和泉・河内の代官だった今井宗薫と堺政所(奉行)の芝山正親は、密かに徳川軍への協力を画策していた。
 しかしこれが豊臣軍に知られてしまう。そこで宗薫は茨木城の片桐且元に保護を依頼したが、これも堺市民によって密告されてばれてしまい、10月12日、豊臣軍の槇島重利赤座直規・新宮行朝らが先手を打って堺に進撃してきた。芝山正親は兵が少なかったので弟の正綱を堺に留め置いて自身は小出吉英を頼り岸和田城へ落ち延びる。この時に宗薫・宗呑親子も誘ったが「片桐軍がこのまま来ると全滅するかもしれない。茨木にこのことを知らせた後、堺に戻る」と言って断られた。

茨木城跡
茨木城跡

【交戦】10月13日、豊臣軍300が堺政所を攻め、正綱を討ち取り占拠し軍需品を徴収した。同じ日に且元も多羅尾牟左衛門ら200を尼崎から船で堺に向かわせ上陸させる。しかしすでに堺は占領されており、付け入る隙がないので、片桐軍は宗薫の家に逃げ込んだ。そこを豊臣軍が取り囲んだため、留守をしていた宗呑は屋敷の外に火を放ち、片桐軍を逃がそうとしたが、退路を絶たれており全滅してしまう。
 宗呑は囚われてしまい、先に囚われていた宗薫と共に大坂城に送られ、今井家の財産はすべて没収されてしまった。その頃、且元自身も尼崎から堺へ向かおうとしたが、尼崎の城兵に行動を怪しまれ船を貸してもらえなかった。そこで茨木に戻ろうとしたが、その途中、大野治長軍にこのことを知られ、且元を嫌う彼によって猛攻撃を受け大敗北を喫する。

今井宗薫の屋敷跡
今井宗薫の屋敷跡

【解放】堺はそのようにして豊臣軍の手に落ちたが、徳川軍が迫っていると聞いて、10月下旬に引き上げた。しかし新宮行朝だけは手勢70程を率いて残ったが、10月29日頃、藤堂高虎の先発隊が迫ってきたので、敵陣の前を通って引き上げている。この時に藤堂軍は追撃しようとしたが、渡辺了が「伏兵があるはずだから追うな」と制している。これにより堺は豊臣軍から解放され、徳川軍の補給地となった。
 この冬の陣で豊臣軍が堺市街で乱暴狼藉を働いたため、市民の心は徳川家に大きく傾いた。ただ堺は大坂に近いため、はっきりと徳川側と主張することが出来ず「足を両鐙に置かんと欲した(『宣教師の報告』)」という二股をかけた状態を取った。傭兵を雇って戦国大名に対抗した昔日の面影はなく、武力を持たない商業都市としてはそのような行動に出るのも仕方がないところであろう。

堺市内
現在の堺市内

【焼き討ち】和議が成立し、一安心した堺市民であったが、1615年4月、すぐに夏の陣が始まる。冬の陣で徳川軍に軍需品を提供した堺が真っ先に狙われるのは明らかだったので、市内は大混乱となった。外国商人は商品を京都に移し、他の市民も安全な場所に財産を移して避難している。
 4月28日、豊臣軍は和歌山の浅野長晟を攻めるために大坂城を出撃し(樫井の戦い)、そのついでに大野治胤は堺に向かい、火を放って市内を焦土と化した。この時の炎は大坂からも見えたほどだったという。これを聞いた徳川軍の向井忠勝・九鬼守隆が船で救援に向かったが、堺に駐屯していた豊臣軍の激しい攻撃を受けて撃退され忠勝も負傷している。だが樫井の戦いで豊臣軍の本隊が敗北したため、駐屯していた豊臣軍も大坂城が引き上げていった。
 この焼き討ちで堺は壊滅し、その後徳川家が復興に手を貸したもののそれまでのような繁栄は取り戻せなかった。

堺占領(冬の陣)・合戦図
堺占領(冬の陣)・合戦図

管理人・・・なんとまあと言った感じの戦いです。冬の陣の戦いは敵の補給を絶つということで意味がある戦いだとは思うんですが、夏の陣は短期決戦になるのは分かっていたから、完全に恨みによる攻撃ですよね。秀頼が堺の行動に怒って、「堺を火と血に任せよ」と言っていたそうですから、みんながかなり頭にきていたんでしょう。でも、堺で悪さして嫌われた豊臣軍も悪いんじゃあ、、、。ちなみに徳川軍の方も悪さをしており、本多忠政の兵が問題を起こしています。以上、大坂の陣のとばっちりを受けた堺占領でした。

UPDATE 2002年12月7日
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