本町橋の夜襲戦

(ほんまちばしのやしゅうせん)

豊臣軍塙直之隊(大野治房)(150)
徳川軍中村重勝隊(蜂須賀至鎮軍)(数百?)
戦  場:摂津国大坂城本町橋周辺

【俺が士気をあげてみせよう】1614年12月4日、完全に徳川軍が大坂城を包囲し、天満川のある北側を除いて城の堀に迫っていた。これに対して豊臣軍は「このまま囲まれているだけでは士気が下がるばかりだ。ここは討って出よう」と、塙直之・長岡興季御宿政友らが話し合い夜襲をすることに決めた。それを聞いた大野治房がそのために150人の兵を揃えたが、直之が「夜襲にはもっと小人数でするべきだ」と言い出したため、みんなで協議した。だが結局結論が出ないまま、朝を迎えてしまった。

【さいかさい】16日、直之は先日に実行出来なかった夜戦をするために、蜂須賀軍の一隊が本町橋の南に陣を敷いているを見て、そこに目標を決める。「さいか」と聞かれれば、「さい」と答えるという合言葉を決め、白布を貼って出撃した。その言葉通りに戦の「さい」が投げられる。その頃、蜂須賀軍で本町橋南にいた中村重勝隊は、奇襲があるなどとは夢にも思っておらず、兵士の大半は眠っており、見張りの者も雑談をしながら、差し入れの餅を食べてくつろいでいた。
 もっとも誰もが予想していなかったわけでなく、家老の樋口正長が「橋のほとんどが焼かれているのに、本町橋だけが残っているのはおかしい。向こうがこちらを伺っている雰囲気もあるし、もしかすると夜襲があるのではないか」と、口にしている。しかしほとんどの者は注意を払ってはいなかった。

本町橋
現在の本町橋

【夜襲戦】17日の午前2時頃、直之は銃卒百人を門の外に伏せさせ、兵20と共に中村隊に迫った。それに続いて治房と正近の兵が出撃し一斉に攻撃をしかけた。中村隊は大混乱をきたし、鎧もつけていなかったため、一方的にやられていき、大将の重勝も討ち取られた。だがこの騒ぎを聞きつけた蜂須賀軍の他の隊が援軍にかけつけたため豊臣軍は撤退していった。この時、直之は名前を売るため『夜討ちの大将・塙団右衛門直之』という木札をばらまいていったという。この夜襲によって豊臣軍の士気は大いにあがった。しかし、その頃すでに和議の話し合いが行われており、大勢には影響が無かった。

管理人・・・この時、団右衛門は自分で斬り込んだりせず、橋の上に床几を置いて、そこで指揮を取っていたそうです。以上、団右衛門の指揮が冴えた本町橋の夜襲戦でした。

UPDATE 2001年8月31日
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