屋代忠正

(やしろただまさ)

生没年:1594〜1662年/ 身分:甲斐巨摩郡内で4千石の領主/ 官位(通称、号):甚三郎

吉祥寺
忠正が葬られた東京都文京区本駒込3−19−17にある吉祥寺

【大名となる】屋代勝永の息子(次男か三男)。屋代吉正の弟。大坂冬の陣に父と共に従軍し、今福の戦いでは佐竹義宣の先鋒と共に戦って矢野正倫を討ち取った。
 1615年3月に甲斐巨摩郡内で4千石を与えられる。夏の陣でも自ら6人の武将を討ち取った。1622年、徳川忠長に父と共に付けられ、1623年に父が亡くなると遺領を相続し合わせて1万石の大名となる。

【安房へ】やがて忠長の家老となるが1632年に忠長が改易されると、忠正は越後高田の松平光長に預けられた。1636年に許され、1638年に安房北条1万石を与えられる。1662年4月24日死亡。法名・梁岩玄棟雲輝院。

参考文献三百藩藩主人名事典・更級郡埴科郡人名辞書

UPDATE 2005年2月15日
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