屋代勝永

(やしろかつなが)

生没年:1558〜1623年/ 身分:甲斐巨摩郡内の領主?/ 官位(通称、号):越中守

小諸城
勝永が城主を務めた長野県小諸市丁311にある小諸城

【信濃の豪族】秀正とも。信濃室賀城主・室賀満正の四男。1575年に信濃更科郡の屋代城主で伯父の屋代政国の養子となり、屋代左衛門尉忠照と名前を改めた。武田勝頼に仕えていたが、1582年3月に武田家が滅亡したため、信濃丸子城を守備して成り行きを見守る。
 同年6月に本能寺の変が起き信濃が不安定になると、屋代城を奪い取り上杉景勝に属した。その後、他の国人と共に上杉家への反乱を企てたものの、家臣に密告されたため、上杉軍の上条政繁に攻められて酒井忠次を頼って落ち延びる。

【徳川家の家臣に】そして徳川家に仕え忠次や大久保忠世に属し、信濃平定で功があり更科郡内の領地を回復した。この頃に酒井左衛門尉忠次と官位と名前がかぶるため、越中守勝永と改める。その後、小牧長久手の戦いに参加。徳川家が関東に移封されると武蔵国内に領地を与えられる。
 1600年に信濃国内に、1614年に甲斐巨摩郡内に領地を与えられた。大坂の陣では旗奉行を務め、今福の戦いでは佐竹義宣の先鋒と共に敵の柵を破る活躍をする。1622年に徳川忠長に付けられて信濃小諸城代となった。1623年9月3日死亡。山梨県の勝永寺に葬られる。

管理人・・・彼の領地ですが、武蔵・甲斐・信濃に点在していたのは分かったんですが、どこが本拠地か分かりませんでした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版三百藩藩主人名事典・信濃人物志・更級郡埴科郡人名辞書

UPDATE 2005年2月9日
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