深尾重良

(ふかおしげよし)

生没年:1557〜1632年/ 身分:山内家の家臣/ 官位(通称、号):和泉守・次郎兵衛

高遠城跡
重良が重傷を負った長野県伊那市にある高遠城跡

【美濃の豪族】山内家の家臣。先祖は近江深尾に住んでいたが、重良の祖父・重列が足利家に仕え戦功により、美濃太郎丸城を与えられた。重良はその跡を継いで太郎丸城主となり、土岐家に属して斉藤道三と戦う。その後、織田家に仕えて、織田信忠に属し1577年に松永久秀の籠もる信貴山城を攻め戦功があった。1582年の甲州征伐でも信忠に属し信濃高遠城を攻めたが、重傷を負っている。しかしその勇気を賞され短刀を与えられた。
 1582年の本能寺の変で信忠が自害すると、美濃の諸将と共に岐阜城主・織田信孝に抵抗し、太郎丸城を攻めてきた信孝軍を撃退している。その後、和解して信孝に属したが、1583年の賤ケ岳の戦いで信孝が豊臣秀吉に強要されて自害すると、加賀大聖寺城主・溝口秀勝を頼った。1585年に山内一豊が近江長浜2万石の城主となると、重良は彼に招かれる。

伊豆山中城
重良が奮戦した静岡県三島市山中新田にある伊豆山中城

【山内家の重臣】1590年の小田原征伐では一豊に属して伊豆山中城を攻めて功があった。一豊が遠江掛川に移封されると、3千石を与えられて三の丸に住む。関ヶ原の戦い後に一豊が土佐に移封されると、山内康豊に従って先発隊に属し土佐の状況を偵察した。1603年に高岡郡佐川1万石を与えられ、筆頭家老となる。慶長年間の江戸城修築・丹波篠山城築城・名古屋城築城に関わり、幕府から賞された。
 大坂の陣では山内家全軍の指揮官を務める。安芸広島城主・福島正則が改易される際に兵を率いて広島に行き有事に備えた。広島からの帰国後、主君の忠義に隠居を申し出たが許可されなかったため、和泉堺に退去する。1630年に隠居し、家督を養子・重昌(忠義の弟)に譲る。1632年死亡。高知県幡多郡黒潮町有井川字橋本の清源寺に葬られた。

管理人・・・1585年に一豊に招かれた理由がよく分かりませんが、おそらく織田家中で知り合いだったのでしょう。

参考文献:高知県人名事典

UPDATE 2006年9月7日
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