山口重政

(やまぐちしげまさ)

生没年:1564〜1635年/ 身分:蟄居中/ 官位(通称、号):但馬守

尾張大野城
重政が守備していた愛知県愛西市大野町にある尾張大野城

【大内氏の支族】尾張寺辺城主、山口重勝の養子(山口盛政の子)。先祖は周防山口の大内氏。織田信雄の家臣・佐久間正勝に仕え、1584年の小牧長久手の戦いでは織田・徳川連合軍の一員として尾張大野城の守備をして豊臣軍と対峙。その関係で徳川家との繋がりが出来る。
 1586年に家督を相続。1590年に織田信雄が転封拒否をして改易になったため、それに従い下野についていくが、後に徳川秀忠の家臣となり5千石を賜る。

【暗殺】1600年の関ヶ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻撃に参加。その戦功で常陸牛久1万石の大名となるが、1613年に大久保忠隣の養女(石川忠義の娘)と勝手に縁組したことを咎められ改易され、武蔵の龍穏寺に蟄居させられる。
 1614年に大坂の陣が始まると、何とか山口家を再興しようと「自分が豊臣家に加担する振りをして大坂城に入り豊臣秀頼を殺す」と家康に提案したが拒否されている。1615年の夏の陣では井伊直孝軍に属して若江の戦いで活躍している。その後、高野山に閉居、本多忠政預かりを経て、1628年に常陸牛久などで1万5千石の大名に返り咲き奏者番となる。1635年9月19日死亡。法名・大安全勇瑞厳院。東京都港区南麻布の曹渓寺に葬られた。

管理人・・・改易後に命を捨ててもお家を再興しようと秀頼暗殺計画を企てますが家康に「卑怯な手で倒したくない」と拒否されています。でも、その熱意で夏の陣では参陣できたようです。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版三百藩藩主人名事典・戦国武将201 裸のデータファイル

UPDATE 2001年12月15日
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