脇坂安治

(わきさかやすはる)

生没年:1554〜1626年/ 身分:伊予大洲5万3千石の大名/ 官位(通称、号):中務少輔

脇坂安治屋敷跡
小谷城の麓、長浜市小谷丁野町にある脇坂安治屋敷跡

【秀吉に仕える】脇坂安明の息子。母は田付景治の妹。安治は景治の妹と田付孫左衛門の子で安明と再婚した際の連れ子との説もある。近江浅井郡脇坂に生まれた。1569年に明智光秀に従い、赤井直正の篭る黒井城攻めで初陣する。この年に豊臣秀吉に仕え、姉川の戦い、小谷城攻めで功があった。1576年の安土築城でも功があり150石を与えられる。その後、三木城攻めなどで活躍した。

【七本槍】1583年の賤ケ岳の戦いでは抜群の戦功を上げ、賤ケ岳七本槍の一人に上げられ山城国内で3千石を与えられる。翌年の小牧長久手の戦いでは伊賀上野城を襲い瀧川雄利を伊勢に追った。1585年に摂津能勢郡内で1万石を与えられ、同年に大和高取城2万石に移封され、さらにまた同年に淡路洲本3万石に移封される。
 その後、九州征伐、小田原征伐では水軍として活躍した。朝鮮出兵でも九鬼嘉隆・藤堂高虎らと共に水軍として出陣するが、李氏朝鮮の武将・李舜臣によって巨済島の戦いで大損害を与えられ、安治自身も海中に逃れるという目にあう。しかしその後の加藤清正救出の蔚山城の戦いで功があった。

脇坂安治陣跡
岐阜県不破郡関ヶ原町松尾にある脇坂安治陣跡

【裏切り四将】関ヶ原の戦いでは西軍に付き小早川秀秋の下で伏見城攻めに加わり本戦にも参加したが、徳川家康に使者を遣わして内通し秀秋と共に東軍に寝返る。そのため戦後、所領を安堵された。1609年に伊予大洲5万3千石に移封される。大坂冬の陣が起こると豊臣家への恩のため参陣せず安元を大坂に向かわせた。1615年に隠居し1617年に臨松院と号し京都の西洞院に住む。1626年8月6日死亡。京都市右京区の妙心寺に葬られた。

管理人・・・脇坂家は七本槍の中では珍しく無事に大名として明治維新を迎えています。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜

UPDATE 2005年10月21日
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