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宇喜多忠家の子。叔父は備前・備中・美作を中心に活躍した宇喜多直家。忠家は直家・秀家の二代を支え実直な性格で皆から信頼されていた。直盛は備中高松の水攻めで初陣する。その後、数々の戦いに参加して経験を積む。直家が亡くなり、忠家も引退すると秀家の後見人となった。
【反乱】抑える者がいなくなると武断派は長船綱直の毒殺(これは疑惑があっただけだが)、中村次郎兵衛を排斥するよう秀家に言うなどの行動に出る。これに気を悪くした秀家が武断派のリーダー・戸川達安を暗殺しようとしているという情報が直盛に入ると二つの関係は決定的なものになってしまい、武断派が剃髪し直盛の大坂屋敷に立て籠もった。
津和野に入国する前後に名字を宇喜多から坂崎に改名。家康に「宇喜多は不吉な名字なので、改めろ」と言われたためらしい。
【千姫救出】1614年に大坂の陣が起こると徳川軍の一員として参加。冬の陣では出番のなかった直盛だが、夏の陣では誰もが知っているほどの活躍をする。それは千姫を助け出したことである。燃え盛る大坂城の中を千姫を求めて探し回り、遂には火傷を負いながらも救出に成功する・・・、というのはドラマの中であって事実は以下の通りと言われている。
これもどうやら事実ではないようである。以下は新井白石の見解である。公家衆にも顔が利いた直盛は秀忠に千姫の縁談を依頼され、話をととのえたが、彼女がそれを嫌がり、忠刻と再婚しようとした。それを聞いた秀忠は直盛に破談にするように頼んだが、それでは面目が立たない。そこで直盛は「それなら人手には渡したくないので千姫を奪う。どうしてもそれが駄目と言うなら首を刎ねてくれ」と言い、人を集め始めた。 困った秀忠はなだめようと使いを出したが、一向に納得してくれない。そこで幕府の重臣は裏で直盛の家臣に手を回し「直盛を自害させたら、親族の者を立てて坂崎家を存続させてもいい」と伝えた。それを聞いた家臣達はお家のためと、直盛を殺し自害に見せかける。1616年の9月11日のことである。しかしこの計略は幕府にばれ「主人を殺すなど言語道断」と坂崎家を改易してしまう。ちなみに柳生宗矩に説得され自害したという説もある。 法名・一峯玄秀大居士。湯島妻恋の海禅寺に葬られた(現在、この墓は不明)。また島根県津和野町の永明寺にも亀井家(直盛の後の津和野城主)と小野寺義道(元・出羽横手城主。関ヶ原の戦い後、改易され直盛に預けられて優遇された)が共同で建てた墓がある。
しかし千姫に関することは俗説が世間に浸透してますね。炎の中を救出してふられてやけになって強奪を試みる。直盛の性格的にはありそうな話しだけに当時の人も信じてしまったんでしょう。 津和野町にある直盛の墓ですが、幕府をはばかって『坂井出羽守』と刻んであるとあるのは有名な話です。しかし関ヶ原の戦い関係の書物には直盛の姓が『酒井』と記してあるものもあり、宇喜多姓を嫌って坂崎姓を名乗る前に一時的に使っていたのかもしれません。 以上、トラブルメーカーの坂崎直盛でした。 参考文献:山陰の武将・戦国人名事典 コンパクト版・坂崎出羽守、ほか UPDATE 2001年7月21日Copyright (C) 2001 Tikugogawa. |
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