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小田原征伐の際に職秀は豊臣秀吉の陣前を下馬をせずに通り過ぎた。それを番兵が咎めると「戦場で能などをして遊んでいる大将に下馬などできるか」と言い秀吉の方に向かって唾を吐いた。当然秀吉は激怒し、宇喜多秀家に縛り首にするように命じたが、しばらくして考えを変え、切腹にするように変更する。その後、またも考えを変えて「わしにそのようなことを言える男を殺すのは惜しい。命を助けて加増させる」と命じている。 朝鮮出兵に出陣したが、帰陣後の1595年に秀家を諌めて勘気をこうむり佐竹義宣に預けられる。関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い功があり8千石の領地を与えられた。大坂の陣が起こると大名になる望みを賭けて出陣したが加増はなかった。この時、輿に乗って指揮をしたという。1616年死亡。法名・道恵。
「佐竹義宣が手向かってこないか」 「おそらく来ないでしょう」 「では起請文を書け」 しかし職秀は 「男が言ったことゆえ文章にする必要は無い」 と断っています。家康としては諸将の動揺を抑えるためにそう命じたのですが、家康の真意が職秀には分からなかったため戦後大名になれず、それをずっと悔いていたそうです。 勇将で大坂の陣でも活躍しており、備前島で後藤又兵衛の伏兵を見破っています。この時、基次は味方の一部から嘲笑されました。 「予想が当たらなかった」 しかし又兵衛は反論。 「敵に職秀がいたのだろう」 よく分かりませんが、大坂の陣の頃は名前を職之で通していたみたいです。多分、秀家の秀の字を捨てたんでしょう。以上、渋い感じのする花房職秀でした。 UPDATE 2002年2月21日 Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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