矢野正倫

(やのまさとも)

生没年:?〜1614年/ 身分:大野治長隊の部隊長/ 官位(通称、号):和泉守

中村一忠の墓
鳥取県米子市祇園町の感応寺にある主君・中村一忠の墓

【改易】伯耆米子十八万石の大名・中村一忠の重臣で三千石を賜る身分だったが、1609年の夏、一忠が急死すると正室(家康の養女)に子が無かったため中村家は断絶、正倫は浪人となってしまう。
 亡くなった一忠には正室にこそ子がいなかったものの、一忠急死時に京都屋敷の側室に子が一人と(正室に遠慮して届けていなかった)、米子の側室に妊娠7ヶ月の子供がいた。両方とも男の子だったので、矢野正倫と彼の弟の正綱はなんとか中村家を再興させようと、正倫は京都の兄を、正綱は弟の米子の子を盛り立て動き始めた。

正倫の墓
東京都足立区千住仲町4−1の源長寺にある正倫の墓

【中村家再興を賭けて】正倫は、断絶させた徳川家に頼るわけにはいかないと考え、大坂の陣が起こると『豊臣家が再び天下を獲った暁には中村家の再興させる』という条件で大坂に入城した。大野治長隊の部隊長となった正倫は兵300を率いて大坂城北東の今福の砦を任される。
 1614年11月26日、その砦を佐竹義宣軍が攻撃を開始。激しい銃撃戦が繰り広げられた。佐竹軍はわざと鉄砲を上に向け後ろの方に銃弾が落ちるようにしていたので、後方の兵は臆してしまい先頭の後詰になかなかいかない。それを見た佐竹軍は柵に迫り接近戦を挑んだ。正倫も奮戦したものの兵力差が大きく戦死してしまう(今福の戦い)。

【その後の中村家】ちなみに中村家は弟の正綱が一忠の母の実家であった鳥取藩主・池田家を頼り、陪臣ながら再興に成功している。京都の兄の子ははっきりしたことは分からないが九州の大名の家臣になった、京都で出家したなどの説がある。

管理人・・・失敗こそしましたけど、徳川・豊臣両方に再興を頼んだ点はなかなかかも・・・。

参考文献:因伯大名の戦国時代・大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略

UPDATE 2001年7月18日
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