氏家行広

(うじいえゆきひろ)

生没年:1546年〜1615年/ 身分:豊臣軍の部将/ 官位(通称、号):内膳正

行広が城主だった桑名城跡にある蟠龍櫓

【美濃三人衆の子】美濃三人衆の一人として有名な氏家卜全(直元)の次男。1583年に兄が亡くなった為、家督を継ぎ美濃大垣城主となった。美濃三塚城主を経て、1590年の小田原征伐後に伊勢桑名城主となる。朝鮮出兵の時は肥前名護屋城に在陣した。
 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍につき桑名城を守るが、主力の石田三成達が負けたため東軍の池田長吉らの説得に従い城を明け渡す。

【豊臣家に尽くす】そのまま浪人となり荻野道喜と名を変え、若狭の京極高次と播磨の池田輝政の間を往来し暮らしていたが、1614年の大坂の陣が起こると大坂へ入城した。夏の陣直前には徳川家康から10万石の領土を条件に誘われたがこれを断り最後まで豊臣軍のために尽した。1615年5月8日、大坂が落城した時に自害する。

行広が葬られた桑名市東方にある照源寺

管理人・・・行広には小田原征伐の際にこんな話があります。彼は身分や収入が同じ京極高知や朽木宣綱と仲良く3人で小田原に向かっていた時に、近江の草津に泊まりました。そこで宿の亭主を呼んで酒を飲ませた後「この3人の内、誰が殿下(秀吉)の御意にかなうか目利きして、そうと思う人に盃をさしてくれ」と頼みました。亭主は最初断ったが、3人が何度も頼むので、行広に盃をさし「あなたがご主人の御意に叶って必ず桑名城主となるでしょう」と予測しました。
 するとその通りに小田原征伐の最中に秀吉から、桑名の城を授けると約束されます。その後、行広が桑名に入城した際、草津の宿の亭主に感謝のしるしとして引き出物を渡し「これから上方に向かう時はそなたの宿を利用する」と約束したそうです。

 また関ヶ原の戦いの時に本多忠勝から東軍につくように言われますが、秀吉から恩を受けているのでそれは出来ないと断っています。また冬の陣の直前にも家康から誘われていますが「自分は不肖の者で、関ヶ原の戦いからずっと弓馬の道を捨てているので、お断りします」と言っています。
 よっぽど秀吉に恩義を感じていたんでしょう。それと家康も3度も誘うとはよっぽど行広のことを気に入っていたんでしょう。ちなみに行広についてのお話は『明良洪範』の大坂城中日記の項に載っています。
 あと行広のお墓ですが『勢陽五鈴遺響』という書物に『照源寺に氏家内膳正及び松平定綱を安置する』とあったので、実際に照源寺に電話してみたところ「古いお墓がたくさんあってよく分からないですねえ」とのことでした。

参考文献大日本史料(第十二編15〜20)戦国人名事典 コンパクト版・桑名市史・関ヶ原の役

UPDATE 2002年11月9日
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