南条元忠

(なんじょうもとただ)

生没年:?〜1614年/ 身分:豊臣軍の部将/ 官位(通称、号):中務大輔

羽衣石城
鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石にある羽衣石城模擬天守閣

【伯耆の名家】南条忠成とも。伯耆羽衣石の大名・南条元続の息子。先祖は太平記で活躍した塩治高貞。1591年に父が亡くなり跡を継いだ。当初は幼少であったため、叔父の元清が経営の一切を見ており、朝鮮出兵も元清が参加している。

【大儀】1600年に関ヶ原の戦いが起こると、家臣の大半が家康につくべきだと進言したが、元忠は『東軍につくと周りが西軍ばかりなので危険だ。それに秀吉に恩を受けているので敗戦しても大儀を貫くべきである』と言い、西軍につき伏見・大津城などを攻めた。
 しかし結果は西軍の敗北に終わり、南条氏は所領を没収されてしまう。その後、浪人するが豊臣家と徳川家の雲行きが怪しくなると旧臣と共に大坂へ入城。平野橋口で3000人程の兵を与えられた。

南条元忠の墓
鳥取県倉吉市和田54の定光寺にある南条元忠の墓(中央のもの)

【裏切り】だが、冬の陣で藤堂高虎の叔父と知り合いであったため、伯耆一国を条件として裏切りを約束する。そこで、元忠は塀柱の根を切り、そこから東軍を城内に招き入れることにした。しかし、それを渡辺糺に見つかってしまい、城内の千畳敷で切腹させられてしまう。
 別の話しでは内応したふりをし、真田幸村と計って東軍をおびき寄せたとあるが、これは元忠のイメージを良くしようとした作り話であろう。元忠の遺骨は家臣の佐々木吉高が伯耆に持って帰り、倉吉の定光寺に埋葬している。

 裏切りの代償が伯耆一国だなんて無理だと分かっているのに手を出さずにはいられない。人って悲しい生き物ですね、、、。私もそういう状況なら可能性にかけてそうすると思います。でも、これがきっかけで真田丸の攻防が大規模なものになるなんて皮肉です。
 しかし関ヶ原の戦いの際に大儀を貫くっていいながら貫いてないじゃん。多分、この時に西軍についたのは隣の大国・毛利家がついたからでしょうね。以上、悲哀が感じられる南条元忠さんでした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版・羽衣石城攻防戦誌、ほか

UPDATE 2001年7月11日
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