郡宗保

(こおりむねやす)

生没年:1546〜1615年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):主馬

大津城跡
宗保が攻めた大津城跡の碑

 伊丹親保の息子。摂津の武将で荒木村重の家臣だったが、村重が没落すると豊臣秀吉に仕え馬廻となり美濃可児郡などで3千石を与えられた。朝鮮出兵では兵糧船の調査に関わる。関ヶ原の戦いで西軍について大津城を攻めた。戦後も秀頼に引き続き仕え大坂の陣では旗奉行を務める。1615年5月7日に豊臣軍が敗北すると自害した。

管理人・・・彼が自害する時のことは『難波戦記』に次のように載っています。『天王寺・岡山での最終決戦で奮戦した後、千畳敷に来て、大野治長に会い「今はこれまでなら旗と幌を返上します。私は天王寺で討死するところを、預かった旗や幌を雑兵に渡すのは口惜しいと思って敵から逃げてきた。敵も味方もその事情を知らない者から『70余りの主馬助がいつまで命を惜しむのか』と笑われるのが恥ずかしい」と、旗と幌を床に置いて、上帯を押し切って鎧を脱いだ。
 そして郎党を招いて「この短刀で介錯してくれ。あと思うところがあるからこの短刀を黒田長政に届けてくれ」と言い含めて、腹を十字に掻き切り死んだ』そうです。ちなみに子孫は黒田家に仕えています。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版・難波戦記

UPDATE 2003年4月2日
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