喜多村政信

(きらむらまさのぶ)

生没年:不詳/ 身分:摂津の領民/ 官位(通称、号):三右衛門

多聞城
奈良市多門町にある烏帽子親・松永久秀の居城、多聞城

 喜多村秀政の息子。秀政は細川家の家臣だったが理由があり致仕し摂津の野里村に住み郷士となった。
 政信は松永久秀を烏帽子親として成人した。大坂冬の陣が起こる直前に豊臣秀頼に召され、中島・佃・大和田・加島の住民を率いて暴れまわった。政信は片桐且元の部将・牧野治右衛門と槍を合わせ首を落とし、その他首級23を得た。そして池田利隆軍を撃破するなど活躍し秀頼から褒美を与えられた。
 夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦では大坂城の青屋口を守っていたが豊臣軍が敗れたため徳島に逃れる。しかし追及が激しく松平忠明に自首した。幕府は彼を大坂の鎮撫に必要だと判断し『秀頼の領民が忠誠を尽くすのは当然』という理由をつけて釈放した。

管理人・・・この釈放に対して且元が不服を唱えると政信は彼を睨みつけて「故太閤から恩義を受けた汝が保身を計り、遺児を攻め殺すとは武士の所業なりや」と言ったそうです。

参考文献大阪人物辞典・難波戦記

UPDATE 2004年4月2日
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