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当初は秀長の嫡子とする予定だったが、1588年に秀吉は秀保(三好一路の子)を改めて嫡子とすることを決める。しかし高吉の才覚を愛していた秀長はこれに反対し、二人の仲は険悪なものとなった。そこで秀長の家臣だった高虎は秀吉に高吉を養子にしたいと願い出て貰い受ける。この時、高吉は秀長から1万石を贈与され、秀吉からも宮内少輔に任ぜられ、名を高吉と改めた。
高虎が伊勢・伊賀に移封となった後も今治城主として残った。大坂冬の陣では高虎軍の中軍の大将として850人の兵を率いて従軍する。夏の陣でも同じく中軍の大将として八尾の戦いで長宗我部盛親隊相手に奮戦し、翌日の天王寺・岡山での最終決戦では藤堂軍先鋒隊壊滅のため、左先鋒を務めた。
1635年8月、松平定房が今治へ移封となったので、伊勢国内に2万石で移封となる。その後、高吉は高次に半強制的に伊賀名張に移封され2万石は宗家の領土に加えられ、大名から家臣の地位に転落させられた。高吉の家臣達はこれを不服としたが、高吉はこれを押さえて300の家臣と共に名張に移る。その後、藩の政務からは距離を置いて過ごし、1670年7月18日死亡した。
名張移封の件ですが、高次は豪気な人だったのですが、高吉だけにはライバル意識があってそれで移封させたという説もあります。以上、みんなにその才覚を愛された藤堂高吉さんでした。 参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役・三百藩家臣人名事典・戦国人名事典 コンパクト版、ほか UPDATE 2002年9月3日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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