藤堂家信

(とうどういえのぶ)

生没年:1577〜1636年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):式部

高塚地蔵
内匠と戦った場所にある高塚地蔵(八尾市泉町1丁目)

【重臣】磯野形部の息子。父が藤堂高虎と知り合いで、その縁で高虎に仕え、家信もその家臣となった。朝鮮出兵に従軍し、1597年の南原城攻めの時に頭に傷を受けながらも首をあげている。関ヶ原の戦いにも従軍し、その功で合計1千石の領主となった。1609年に藤堂姓を許されている。

【負傷】大坂の陣に従軍し、八尾の戦い長宗我部盛親隊の先鋒・吉田内匠の首を取るという戦果を上げたが、内匠に膝を斬られてしまう。そのため、大坂の陣が終わると帰陣せず、治療のため有馬温泉に向かった。津に戻ると藤堂家を去った渡辺了(勘兵衛)に代わって伊賀上野に行き政務を執る。
 その後順調に出世し最終的には2万石を与えられた。1623年に松平忠直が騒動を起こすと高虎の命令で伊賀者を越前に派遣して様子を探らせている。1634年10月に領内の伊賀上野で仇討ちをした荒木又右衛門らを預かった。1636年2月19日に死亡。

管理人・・・膝は結局治らなかったそうです。また八尾の戦いの際には長宗我部軍の足軽大将の横山将監も討ち取っています。文武両道の名将だったんでしょうね。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役

UPDATE 2002年8月22日
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