沢満廉

(さわみつかど)

生没年:1588〜1615年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):隼人

常光寺
親満の葬られた八尾市本町5−8−1にある常光寺

【父親の紹介】沢親満の長男。幼名・左平次。沢家は伊勢宇陀郡の領主で秋山家・芳野家と共に『宇陀三人衆』と呼ばれた豪族で、伊勢の国司・北畠氏の被官として働いた。父・親満は賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に味方し、伊勢松ヶ島城主・蒲生氏郷の与力となる。1590年に氏郷が奥州に移封されたので、大和郡山城主・豊臣秀長に仕えた。

【本人の紹介】1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたため改易となったが、藤堂高虎と親しかったので、息子の満廉が家臣として取り立てられ14歳で1千石という高禄を与えられる。満廉はその後、母衣衆に抜擢され、1608年に藤堂家が伊勢・伊賀に移封されると重臣となった。
 大坂の陣では藤堂元則隊に属して戦い、冬の陣では高虎に叱責されたが、成瀬正成の執り成しで罰せられることはなかった。1515年5月6日の八尾の戦いで奮戦し戦死する。

管理人・・・息子は僅か1歳だったので、家督は弟の満清が継いでます。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年8月13日
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