佐伯惟定

(さえきこれさだ)

生没年:?〜1618年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):権之正

【島津との戦い】大友家の家臣で栂牟礼城主・佐伯惟直の息子。祖父・父が耳川の戦いで島津軍と戦い戦死したため家督を継ぎ、1579年以降の島津軍の北上を食い止める。1586年10月、島津家久軍が日向より豊後に侵入し、惟定に降伏の使者を送るが、これを拒否し使者を斬り捨てた。
 12月からは島津軍を各地で撃退し寝返った諸城の回復に努め、この働きを賞した豊臣秀吉から感状を与えられる。九州征伐では豊臣秀長軍の道案内を務めた。朝鮮出兵では大友軍の一員として従軍する。

【藤堂家へ】1593年に大友義統が改易されると、藤堂高虎の家臣となり、藤堂軍の一員として再び朝鮮半島に渡海した。関ヶ原の戦いでは留守を任される。1601〜1611年の間に各地の城の普請を務めた。
 大坂両陣に従軍し、八尾の戦いで先鋒が長宗我部盛親隊に壊滅的な打撃を受けたため、翌日の天王寺・岡山での最終決戦では先鋒を務めた。1615年、戦功により500石加増され、4500石の領主となった。1618年6月9日死亡。法名・宗忠功月大禅定門。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年8月11日
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