西島之友

(にしじまゆきとも)

生没年:1596〜1680年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):八兵衛

西島八兵衛の屋敷跡
香川県高松市番町にある西島八兵衛の屋敷跡

【近習】藤堂家の家臣だった西島九郎左衛門の息子。之友は九郎左衛門が病気のために藤堂家を去り、遠江に隠棲していた時に生まれ、1612年に藤堂高虎の近習となった。大坂の陣では祐筆として従軍し首帳をつける。

【土木で活躍】子供の頃から土木関係に詳しく二条城・大坂城修築で活躍し、1625年に讃岐が旱魃(かんばつ)になった際、幕府の重臣・土井利勝からの依頼で讃岐の生駒家の領地に派遣され、空海が造ったと言われる満濃池を復活させた。その他にも用水地100ヶ所近くを修築や新設し讃岐の農業に大いに貢献する。1628年に津に戻って1千石に加増された。だが戻ってすぐにまたも利勝の要望で今度は生駒家の家臣となったが、1639年に生駒家が改易になったため藤堂家に戻る。
 1639年に藤堂家領内で旱魃が起きた際、用水・開削に貢献し13ヶ村に600町余りの田畑を潤した。1648年に城和奉行に任じられる。1680年3月20日死亡。正崇寺に葬られた。法名・釈智賢居士。

西島之友の墓
三重県伊賀市紺屋町の正崇寺にある之友の墓

管理人・・・土木関係のエキスパートで讃岐・伊勢で大活躍しています。正崇寺の方が「用水の他にも和歌山城などの築城にも関係していました。高虎がゼネコンの社長だとすると、之友は現場監督ですな」とおっしゃってました。
 之友は仕事に非常に熱心で煎り豆を歩きながら食べて食事の時間を削るなどしてましたが、それが災いして同僚から反発されることがあったそうです。また文化人としても活躍し俳句・能筆家としても有名でした。以上、現在は水の神様として祭られている西島之友でした。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2002年9月27日
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