九鬼広隆

(くきひろたか)

生没年:1551〜1641年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):四郎兵衛

和歌山市
広隆の移り住んだ和歌山市

【九鬼一族】父は松木政彦、母は九鬼嘉隆の妹。若い時から嘉隆に養われ九鬼姓を名乗り18歳で初陣した。のちに織田信孝に仕え戦功を立てたが、1583年に信孝が自害すると紀伊和歌山の城代・桑山正晴を頼って和歌山に居住する。
 その後、池田長吉の家臣を経て加藤清正の家臣となり、朝鮮出兵に従軍し、捕虜となった王子兄弟を預かった。帰朝後、恩賞の沙汰がないのに腹を立て、妻だった清正の姪を離縁して加藤家を去り、大坂に行く。

九鬼嘉隆の墓
三重県鳥羽市鳥羽2丁目12−3の常安寺にある叔父・九鬼嘉隆の墓

【たどり着く】その後、石田三成に招かれるが、これを断り黒田長政の家臣となった。しかしそこも去り、小早川秀秋に3千石で仕える。しかし小早川家が改易となったため藤堂高虎に仕えた。
 大坂両陣に旗奉行として従軍し、この際、徳川家康の目に止まる。帰陣後、またも浪人し江戸に住居を構えていたが、武勇を知られていた広隆はすぐに諸大名から声がかかった。前田家からは3千石の高禄で誘われたが、体調を理由に断る。1623年に徳川頼宣の家臣となり千石を与えられて旗奉行となり、1641年10月21日死亡した。享年91歳。

管理人・・・家康の目に止まったのが縁で紀州徳川家に仕えたのでしょう。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・三百藩家臣人名事典、ほか

UPDATE 2002年8月1日
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