鳥居忠政

(とりいただまさ)

生没年:1566〜1628年/ 身分:陸奥岩城平12万石の大名/ 官位(通称、号):左京亮

鳥居氏発祥地
愛知県岡崎市渡町東浦6にある鳥居氏発祥地

【父のおかげ】鳥居元忠の次男。小牧長久手の戦いの戦いに従軍した。1600年の上杉征伐では父とは別行動をとって徳川本軍に従い、関ヶ原の戦いでは江戸で上杉軍に備える。1602年に父の功で陸奥岩城10万石に移封された(後に2万石を加増された)。そこで12年もの歳月をかけて平(たいら)城を築き、その三階櫓を中心とした豪華な城は『岩城名物三階櫓、竜のお濠に浮いて立つ』と歌われたという。

【出羽の要(かなめ)】大坂の陣では江戸に留め置かれた福島正則らに備え江戸の警護を任された。1622年に最上家が改易されると、幕府は東北の守りを任せられる人物として忠政を選び彼に出羽山形22万石を与えた。そこで忠政は堤防や宿駅の整備、特産紅花の市開設、徹底的な検地などを行なう。検地は過酷を極め、その測量に用いられた縄を農民達は忠政の官位名を取って『左京縄』と呼んだ。
 1626年にさらに2万石を加増された。1628年9月5日死亡。山形市七日町の長源寺に葬られた。

鳥居忠政の墓
東京都文京区本駒込2丁目26-15の江岸寺にある忠政の墓

管理人・・・忠政の死にはこんな話しがあります。忠政は最上義光の寄進した立石寺の山林の松を大量に切って城の普請に使い、その場所で殺生を破り、祭りを中止させるなどなぜか迫害を繰り返しました。
 そこで困った立石寺の円海は他のお寺のお坊さんと一緒に幕府に直訴し、南光坊天海にも頼みましたが解決しませんでした。どうしようもなくなった円海は呪い殺すしかないと七日間呪詛を行ったところ忠政は病気のためになくなったそうです。
 これは『山形松の木枕』に載っているそうですが、真実かどうか分かりません。でもそれだけ恨まれていたことなんでしょう。しかしなんでそこまで立石寺を迫害したんでしょうか。私の勝手な想像ですが、前領主の最上家の色を払拭しようとしたんだと思います。
 以上、農民やお坊さんに恨まれた鳥居忠政さんでした。ちなみに忠政の息子の忠恒は立石寺に謝罪して境内に塔を建立したそうです。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年1月26日
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