渡辺守綱

(わたなべもりつな)

生没年:1542〜1620年/ 身分:尾張徳川家の家臣(1万4千石の領主)/ 官位(通称、号):忠右衛門

渡辺守綱の墓
愛知県豊田市寺部町2丁目27の守綱寺にある守綱の墓

 徳川家の家臣・渡辺高綱の息子として三河国額田郡浦部村で生まれる。先祖は鬼退治で有名な源頼光四天王の一人・渡辺綱。1557年、徳川家康に仕え、尾張石瀬での水野信元との戦い、長澤城攻めなどに参加し、三河八幡の戦いでは徳川軍が総崩れになった際に踏み止まって奮戦し、家康から『槍半蔵』の異名を賜った。
 しかし1564年の三河一向一揆では一揆側に付き家康に背く。鎮圧後、再び徳川家に戻った。その後は遠江掛川城攻め、金ヶ崎での撤退戦、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、駿河田中城攻め、小牧・長久手の戦い、小田原征伐など主要な合戦に参加し奮戦している。
 関ヶ原の戦いでは足軽100人を率いて従軍し、長年の功を賞され南蛮鎧と千石を賜り、それまでの領地と合わせて4千石の領主となった。1613年に家康から徳川義直を補佐するように命じられ1万石を加増されて三河加茂郡寺部に陣屋を構えた。この時、家康から、
「義直が気に入らなければ徳川宗家に戻ってもよい」
 と言われている。大坂冬の陣では尾張徳川家の先陣を務め、夏の陣では義直の側近として従軍した。1620年4月9日死亡。法名・守綱院殿心空釈道喜居士。最初、名古屋市の興善寺に葬られたが、後に豊田市の守綱寺に改葬された。

管理人・・・槍の半蔵として有名です。徳川家の重要な合戦にはほとんど参加しています。
 槍さばきも一流でしたが戦の勘も鋭く、遠江掛川城攻めでは敵が城外に出るような素振りを見せた時もそれがポーズだけだということを見破り、三方ヶ原の戦いでは野戦に向かおうとする家康に不利だと進言しています。

参考文献三百藩家臣人名事典・渡辺守綱と徳川家康・家康の家臣団

UPDATE 2013年4月29日
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