徳川頼房

(とくがわよりふさ)

生没年:1603〜1661年/ 身分:常陸水戸25万石の大名/ 官位(通称、号):左衛門督

瑞龍山
頼房が葬られた茨城県常陸太田市瑞竜町にある瑞龍山

 徳川家康の十一男。母は里見家の家臣・正木頼忠の娘、於万の方。伏見で生まれた。1605年にわずか3歳で常陸下妻10万石の大名となった。1607年に伏見から駿府に移る。1609年に常陸水戸25万石に移封された。
 大坂冬の陣では駿府城を守備し、夏の陣では従軍し後方を守備する。1622年に3万石を加増され28万石の大名となった。1626年に中納言となる。1661年7月29日死亡。茨城県常陸太田市の瑞龍山に葬られた。

管理人・・・頼房は結城秀康や松平忠輝に似て性格が豪放だったため幕府は警戒して大国を与えなかったそうです。しかし豪放なだけではなく領内経営にも力を発揮しており、検地や城下町の整備などを行なっています。でもほとんど江戸住まいで水戸に11回しか戻ってないので家臣がほとんど決めてやっていたのかも、、、。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2004年10月19日
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