竹田定賢

(たけださだたか)

生没年:1577〜1630年/ 身分:徳川宗家の家臣/ 官位(通称、号):慶安

和歌山市
定賢が移り住んだ和歌山市

 竹田定加の子。山城に生まれる。竹田家は明で医術を学んだ名門で定加も丹羽長秀・豊臣秀吉・大政所などを診ている。定賢は関ヶ原の戦い後に駿河国内で300石を与えられ、上洛の際の供をし、大坂城内での間者も務めた。
 大坂の陣後、その功で山城国内で300石を加増される。1619年に徳川頼宣に付けられて紀伊移封に従い、和歌山城下の岡ノ谷に屋敷と紀伊国内で300石を与えられた(合計の石高は各地の知行を合わせて900石か?)。1630年7月21日死亡。

管理人・・・兄弟の竹田永翁は豊臣家についています。また「大坂城内で間者を務めた」とは患者を診るという口実で城内に入り情報を仕入れて家康に報告していたんでしょう。あと子孫は代々慶安を名乗っています。

参考文献:和歌山県史・戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2005年4月14日
Copyright (C) 2005 Tikugonokami.