大道寺直英

(だいどうじなおひで)

生没年:1552〜1642年/ 身分:徳川義直家に居候/ 官位(通称、号):隼人

大道寺政繁の墓
群馬県安中市松井田町新堀1186にある義父・大道寺政繁の墓

 紀州藤縄の住人・舎人忠経の嫡男。母は上野松井田城主で後北条氏の重臣・大道寺家の娘。直英は父が亡くなると母の縁で大道寺政繁の養子となり、大道寺隼人と名乗った。
 1590年の小田原征伐では大道寺一族と共に川越城を守ったが、主君の後北条氏が降伏したため領地を追われ駿河に移り住む。のちに徳川義直のところで居候となった。1614年の大坂冬の陣で、津軽信牧と会った際、築城家と知った信牧と義直の間に召抱えの約束が交わされる。
 1616年3月、約束通り津軽家に500石で召抱えられ家老となった。1622年に亀ヶ岡に築城しようとしたが一国一城令のため中止となった。この頃に津軽直秀(福島正則の孫)を娘の婿に迎えて嫡子とする。後に1千石に加増され、1642年8月23日に死亡。月窓山栄源院貞昌寺に葬られた。

福島正則の慰霊碑
愛知県海部郡美和町大字二ツ寺字屋敷69にある福島正則の慰霊碑

管理人・・・なぜ福島正則の孫が津軽に来たかというと、直秀の母(家康の養女)が1619年の福島家改易で離婚したので津軽信牧と再婚した際(この時期が資料には慶長17年って書いてあるけど、この頃はまだ改易されていないので間違いだと思います)に来た連れ子だったのです。
 その直秀は福島家再興運動のため江戸に行こうとしたところで急死しています。一説には直秀の母が津軽氏に迷惑がかからないようにするため毒を盛ったとの噂があります。
 直英ですが、津軽家が譜代と新参に分かれて『船橋騒動』というのが起こしましたが、それを見事に解決しています。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版三百藩家臣人名事典

UPDATE 2004年3月24日
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