香宗我部貞親

(こうそかべさだちか)

生没年:1591〜1660年/ 身分:寺沢家の家臣/ 官位(通称、号):左近大夫

香宗我部親泰の供養塔
高知市香南市野市町の宝鏡寺にある父・香宗我部親泰の供養塔

【香宗我部家を継ぐ】長宗我部元親の弟・香宗我部親泰の次男。1592年に父が、1593年に兄達が相継いで死亡したため、僅か3歳で家督を継いだ。関ヶ原の戦いで長宗我部家が西軍につき改易されたため土佐を去り高野山の高室院に登る。
 後に堺に移り住み、成長すると寺沢広高に500石で仕えたが大坂の陣で従兄弟の長宗我部盛親が豊臣軍についたためか、中原源右衛門と名を変えている。やがて寺沢家を辞し江戸の知足院に隠遁した。

【復活】しかし1635年、徳川家光の乳母・春日局(貞親の叔父・元親の妻が彼女の伯母にあたる)の口添えで堀田正盛の家臣となり1000石を与えられる(後に1300石)。堀田家の信濃松本と下総佐倉移封にも従った。1652年に子供がいなかったため高井源三衛門の嫡男・重親を養子とする。1660年7月死亡。

管理人・・・貞親の息子・重親ですが、貞親が死んだ後すぐに堀田家が改易されたため又従兄弟の柴田朝意を頼って伊達政宗の家臣となっています。

参考文献長宗我部元親のすべて大日本史料(第十二編15〜20)

UPDATE 2003年5月17日
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