十時連貞

(とときつれさだ)

生没年:?〜1644年/ 身分:立花家の家老/ 官位(通称、号):摂津守

加藤清正像
連貞が世話になった名古屋市中村区中村町字木下屋敷22の妙行寺にある加藤清正像

【立花家の重臣】十時惟次の次男。立花宗茂が立花道雪の養子となった際にただ一人小者として付けられた。島津軍の北九州制覇戦の際に宗茂の弟と母が捕らえられて薩摩に幽閉されたが、1587年、豊臣軍の九州征伐の際に連貞が二人を奪還する。
 立花家が筑後柳川13万石を与えられると連貞は筑後山門郡内に領土を与えられた。その後、朝鮮出兵などで活躍し1500石の領主となる。関ヶ原の戦いで立花家が改易されると宗茂とともに加藤清正の食客となった。

【宗茂に尽くす】1602年に宗茂が加藤家を出て江戸に行くと他の元家老達とともに虚無僧となって生活費を稼いでいる。立花家が陸奥棚倉で大名として復帰すると200石を与えられ家老に復帰した。大坂の陣の前、豊臣秀頼から高禄を約束して招かれたが二君に仕えずと断った。
 立花家が柳川11万石に再封されると1千石を与えられる。島原の乱にも高齢ながら従軍した。1644年9月14日死亡。福岡県柳川市恵美須町27-2の西方寺に葬られた。

管理人・・・連貞が江戸で虚無僧をしていた頃、こんな話があります。ある日、町外れに差し掛かった時に男3人が道を塞いで斬りかかって来ました。連貞はここで問題を起こしたら宗茂に迷惑がかかると考えて逃げましたが、男達がしつこく追いかけてきたので仕方なく刀を尺八で受け止め、刀を奪って逆に切り殺しました。そのため奉行に捕らわれてしまいましたが、なぜか土井利勝は何も調べずに召し放ったそうです。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2004年2月24日
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