諏訪頼水

(すわよりみず)

生没年:1571〜1641年/ 身分:信濃高島2万7千石の領主/ 官位(通称、号):因幡守

信濃高島城
頼水が城主だった長野県諏訪市高島にある信濃高島城

【名門・諏訪氏】諏訪頼忠の長男。諏訪家は信濃の名門で戦国時代には一大勢力を誇ったが、1542年に武田信玄によって宗家が滅ぼされた。しかし諏訪上社大祝の職だけは一族の者に認められ諏訪氏は生き残る。
 頼水の父・頼忠は宗家である頼重の従兄弟で大祝の職を継いでいたが、1582年に武田家が滅んですぐに本能寺の変が起き、信濃が真空地帯となったの見て蜂起し、茶臼山城(高島城)の代官・弓削重蔵を襲い城を奪還した。その時、火事場泥棒に来た徳川軍と対立する形になったが、12月に和睦する。

【諏訪氏を継ぐ】頼水は僅か6歳で大祝を継ぎ、1590年の小田原征伐では父と共に出陣。徳川家が関東に移封になると、諏訪家は一緒に武蔵の奈良梨・羽生・蛭川1万2千石に移封となった(後に上野総社に移封)。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍し旧領・信濃や上野の守備に当たった。
 1601年10月、諏訪家はその功により信濃高島城2万7千石に復する。1605年に父が亡くなると跡を継ぎ高島城主となった。大坂冬の陣では甲府城を守備し、夏の陣では大坂への従軍を願い出たが認められず同じく甲府城守備を命じられ、息子の忠恒が兵を率いて出陣する。

諏訪頼水の墓
長野県茅野市ちの上原1753の頼岳寺にある頼水の墓

【幕府の信頼を得る】1626年に改易された松平忠輝を預かり、諏訪家で彼の面倒を生涯見た。1634年に徳川家光から杯と饗膳が下されもっとも信頼出来る人物の一人にあげられる。1640年に家督を忠恒に継がせ隠居した。1641年1月14日死亡。頼岳寺に葬られた。頼水は、逃げていった百姓を呼び戻したり新田開発をしたりするなど、領地の安定に力を注いだと伝えられている。

管理人・・・頼水にはこんな話があります。ある日、諏訪家の菩提寺・永明寺に罪人が逃げ込みました。そこで僧侶が引き渡さないので寺を焼いて罪人を捕まえて首をはねたそうです。その後、頼岳寺を建てて寺の物をそっちに移したそうです。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年8月19日
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