千代姫

(ちよひめ)

生没年:1609〜1645年/ 身分:豊臣秀頼の子/ 官位(通称、号):なし

東慶寺
神奈川県鎌倉市山ノ内1367にある東慶寺

 豊臣秀頼の長女。母は秀頼の側室・成田助直の娘。大坂落城の時、なんとか城を逃れた。義母の千姫の懇願で徳川家康に命を許され、鎌倉の東慶寺に入れられる。この時、千代姫は何か望みがあるかを聞かれ、縁切り法の存続を願い出て許された。尼となった千代姫は天秀尼と称し、やがて東慶寺二十代の住職となる。そして千姫の援助で衰退していた寺の再建などを行った。
 1643年に会津藩主の加藤明成とその家老堀主水が対立し主水が妻子を東慶寺に預け自身は高野山に逃げると、明成は主水と一緒に妻子をも亡き者にしようとし東慶寺に押しかけ、これを捕らえた。そこで天秀尼は千姫に「寺法を廃するか加藤家を潰すか二つに一つです」と訴えたため、千姫が弟の徳川家光に働きかけ、加藤家は40万石から1万石に大減封となった。
 天秀尼は客殿などを改装し蒔絵を集めるなどをしたが生活そのものは質素だったという。1645年2月死亡。東慶寺内に葬られた。

管理人・・・縁切り法を確立させたことで有名な天秀尼さんです。しかし僅か7歳でそんなことを願い出たのか疑問です。千姫辺りが願い出たような気もしますが。
 しかし明成もえらい人を敵に回してしまったものです。天秀尼→千姫→将軍様っていうルートになっているのに気がつかなかったのでしょうか? 明成は頭に血が上っていたようですのでそんな冷静な判断はつかなかったんでしょうが。

参考文献:日本女性人名辞典・大阪人物辞典、ほか

UPDATE 2005年1月29日
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