末吉吉康

(すえよしよしやす)

生没年:1570〜1617年/ 身分:豪商/ 官位(通称、号):孫左衛門

茶臼山
吉康が普請した大阪市天王寺区茶臼山町にある茶臼山

【平野の豪商】名前は吉安とも。末吉利方の嫡子(孫との説もある)。末吉家は平野(ひらの)の実権を握った一族。1601年に利方と共に伏見の銀座創設の計画に加わる。1607年に家督を相続する。1608年からは幕府の許可を得て海外貿易をし、その船は末吉船と呼ばれて繁栄し、息子の代まで続くが1636年の鎖国で中止となった。

【豊臣家を見限る】大坂冬の陣の直前に豊臣秀頼から誘われた。親族の一部には豊臣家の恩を説いてそちらにつくように言う者もいたが断って二条城で徳川家康に謁見した。冬の陣が始まると薄田兼相らが平野に火を放って年寄5人を捕らえて人質としたがそれでも徳川家につき秀忠の本陣の普請をして岡山や茶臼山の陣の敷くのにも協力した。夏の陣では平野が真田幸村の陣地となるが八尾の戦い長宗我部盛親が先に敗戦したために撤退し戦場にはならなかった。
 その後、大坂の陣の功で河内国志紀郡・河内郡の代官となった。1617年3月26日大坂で死亡。

管理人・・・江戸時代に平野が自由都市として繁栄したのは幕閣の土井利勝らと親しかった吉康のおかげだそうです。吉康の画像(豪傑な面構えをしているそうです)が残っているらしいですが場所が分かりません。

参考文献大阪人物辞典

UPDATE 2005年12月23日
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